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大江戸探訪録~東叡山寛永寺~

徳川将軍家の祈祷所・菩提寺として発展し、現在の上野恩賜公園一帯に広大な伽藍を形成した江戸の大寺院『東叡山寛永寺』。現在は上野恩賜公園となり、その敷地内に伽藍が点在する程度で、往年の姿はありません。

現在の上野恩賜公園

かつて、江戸幕府の下で隆盛を誇った『東叡山寛永寺』とはどのような寺院だったのでしょうか。今回は、現在も伽藍が点在している上野恩賜公園とその周辺を歩きます。



1.東叡山寛永寺について

・創建

江戸時代のはじめ、徳川家康─秀忠─家光の三代にわたって仕え、信頼の厚かった天台宗の高僧・天海(慈眼大師)は、江戸の都市計画に関わっていました。〝陰陽道・風水に基づいた江戸鎮護〟を構想していた彼は、京都の鬼門を守る比叡山延暦寺に倣って江戸城の鬼門を守る寺院の建立を進言し、1622年、二代将軍・秀忠により現在の上野恩賜公園にあたる地を与えられます。

1625年、三代将軍・家光の代には本坊(住職の住坊)が建立され、〝東の比叡山〟という意味から山号を『東叡山』、創建当時の年号〝寛永〟から名を『寛永寺』とし、『東叡山寛永寺』が開かれました。天海は〝見立て〟という思想によって江戸を京都に見立て、不忍池を琵琶湖、清水観音堂を清水寺のミニチュアとするなど、境内のお堂を畿内周辺の仏閣に見立てる形で、寛永寺を作り上げていきました。

住職は『寛永寺貫主』と呼ばれ、初代・天海─二代・公海と続いた後は三代以降幕末に至るまで法親王(出家した親王)が就任し、『輪王寺宮』と尊称されました。輪王寺宮は寛永寺貫主・日光山主・天台座主を兼ね、東叡山寛永寺・日光山輪王寺・比叡山延暦寺の三山を掌握することから〝三山管領宮〟とも呼ばれ、徳川御三家と並ぶ格式と絶大な宗教的権威を持って君臨しました。

その境内の規模は現在の上野恩賜公園全域に及び、噴水広場のあたりには本堂である根本中堂が、東京国立博物館のあたりには住職の住まいである本坊が、そしていたるところに寛永寺を構成する子院がずらりと並び、まさに大寺院と呼べる壮大な伽藍を形成していました。

江戸時代の上野恩賜公園(寛永寺境内)

・衰退

1868年、戊辰戦争の中で勝海舟と西郷隆盛の会談により江戸城の無血開城が成り、江戸市中での戦闘は避けられたかに見えました。しかし、彰義隊ら抗戦派の旧幕府軍はこのままではおさまらず、徳川歴代将軍御霊廟守護を名目に寛永寺に集結し、新政府軍との武力衝突(上野戦争)に至ります。その戦いは凄まじく、根本中堂をはじめとする主要な伽藍を焼失するという甚大な被害を受けます。

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明治維新後の1873年、旧境内は上野恩賜公園の用地に指定され、一時は廃寺に追い込まれますが、後に再興されることになります。1879年には子院の大慈院があった場所に、川越の喜多院(かつて天海が住職を務めた寺院)から本地堂を移築して根本中堂とし、小規模ながら復興していくことになります。第二次世界大戦では、空襲により徳川歴代将軍御霊廟の多くが焼失する被害も受けますが、幾つかの伽藍は戦禍を免れ、現在に至っています。

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2.東叡山寛永寺を歩く

では、広小路側から寛永寺の境内に入っていきましょう。

・清水観音堂

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参道をしばらく歩いていくと、右手側の高台に真っ赤なお堂が見えてきます。これは京都・東山にある清水寺を模した『清水観音堂』で、小規模ながら清水寺の舞台造りを再現した江戸の技術の結晶です。公園内に現存する伽藍の中でも最古のもので、1631年の建立当時の面影を今に残しています。

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本尊の秘仏・千手観世音菩薩像は実際に清水寺から贈られた物で、かつて源平合戦の折に、由比ヶ浜で斬首されそうになった平盛久を救ったという逸話が『平家物語』に語られています。


・天海僧正毛髪塔

清水観音堂を抜けると、木陰にひっそりと佇む供養塔『天海僧正毛髪塔』が見えます。この辺りにはかつて、寛永寺の子院『本覚院』があり、寛永寺を開いた天海が亡くなるまでの晩年を過ごした場所でした。遺体は遺言により日光山に葬られ、この地には供養塔が立てられました。後に、本覚院伝来の天海の毛髪が納められ、〝毛髪塔〟とよばれるようになったと伝わります。


・不忍池辯天堂

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参道に戻り階段を下ると、広大な不忍池の中央に八角堂が見えます。これは八臂辯才天を祀る『不忍池辯天堂』で、不忍池に中之島を築き、その上に建立されています。これは琵琶湖の竹生島を模しており、本尊の八臂辯才天も竹生島の宝厳寺から勧請したものです。創建当初は今のように陸続きになっておらず、船で中之島に参詣する形をとっていました。谷中七福神の一つとして名高く、現在も賑わっています。


・花園稲荷神社

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不忍池から参道に戻る途中に『花園稲荷神社』があります。縁起によると、元々この一帯には狐が住み着いており、寛永寺の創建に伴う工事ですみかを失ってしまったといいます。それを哀れんだ天海によって祠が作られ、穴の中にあったことから〝穴稲荷〟と呼ばれるようになったのだとか。その穴稲荷が明治期になって遷座され、現在の花園稲荷神社ができました。縁結びのご利益がとても有名なので、一度行ってみては如何でしょうか。


・時鐘堂

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参道に戻りしばらく進むと、左手に精養軒が見えてきます。その手前にあるのが『時鐘堂』で、今も朝夕6時と正午の計3回、時を告げています。現在の鐘は1787年に改鋳されたものです。

同じ鐘でも上野と浅草じゃ音が違うそうだな。上野の方は金が入ってっから音が高ぇとよ。──────────落語『野ざらし』

花の雲 鐘は上野か 浅草か───松尾芭蕉

時の鐘だけあって馴染み深いのか、このように落語や芭蕉の句にも登場します。


・仏塔(上野大仏跡)

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時鐘堂の向かい側にはかつて『上野大仏』がありましたが、戦時中の供出令により胴体は徴用されてしまい、現在は顔を残すのみとなっています。その跡地に立つ『仏塔』には、明治の神仏分離の影響で上野東照宮の本地堂から運び出された薬師三尊像が安置されています。


・旧寛永寺五重塔

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参道を逸れて上野東照宮の境内に入って行きます。長い参道を進んでいくと右手に見えるのが『旧寛永寺五重塔』です。1639年に再建された当時のものが、現在まで残っている貴重な建造物です。実は元々、この五重塔は上野東照宮の管轄下にあり、明治の神仏分離の影響で取り壊しの対象になったのですが、「この美しい建造物を残したい」と考えた当時の宮司の機転により寛永寺の管轄下となり、取り壊しを免れた経緯があります。現在、この五重塔は東京都の管轄下にあり、内部に安置されていた弥勒菩薩像・薬師如来像・釈迦如来像・阿弥陀如来像の四体は東京国立博物館に寄託されています。


・上野東照宮

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五重塔を横目に参道を進むと、豪華絢爛な唐門が目を引く『上野東照宮』があります。危篤となった徳川家康の枕元に呼ばれた天海と藤堂高虎が、その遺言にしたがって寛永寺の伽藍の1つとして建立した『東照社』が起源。金色に輝く社殿は1651年、三代将軍・家光の代に造営替えされたものです。上野戦争や関東大震災、第二次世界大戦をも乗り越え、往年の輝きを今に伝えています。

祭神は徳川家康(東照大権現)で、後に八代将軍・吉宗と十五代将軍・慶喜も合祀されました。


・開山堂(両大師)

寛永寺の参道に戻り、かつての本坊跡地である東京国立博物館を右に曲がりひたすら進むと、『開山堂』に行き着きます。ここは、寛永寺の開山・天海(慈眼大師)と、彼の尊崇していた比叡山中興の祖・良源(慈恵大師)の二人を祀るお堂で、1644年に建立されて以降永らく〝両大師〟の通称で庶民から厚く信仰されてきました。

裏手には、歴代の輪王寺宮が眠る墓所があります。


・旧本坊表門

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開山堂の右手には、『旧本坊表門』があります。この門は現在、輪王殿の門として使用されていますが、かつては現在の東京国立博物館の敷地に存在した本坊の入り口として存在していました。

輪王寺宮の住した本坊の門に相応しく、皇室の菊紋が配された重厚な作りになっています。上野戦争での戦闘で本坊は焼失してしまいましたが表門は奇跡的に残り、現在の場所に移築されました。今でも残る銃弾の痕が、当時の戦闘の激しさを物語ります。


・徳川歴代将軍御霊廟

開山堂を出て鶯谷駅方面に向かい、寛永寺の子院を横目に見ながら本坊(現在の東京国立博物館)の裏手に出ると、『徳川歴代将軍御霊廟』に行き着きます。ここには、四代将軍・家綱を始め、五代将軍・綱吉、八代将軍・吉宗、十代将軍・家治、十一代将軍・家斉、十三代将軍・家定の計六人の将軍が安らかに眠っています。第二次世界大戦での空襲でそのほとんどが焼け落ちてしまいましたが、一部の建造物は難を逃れ、現存しています。写真は常憲院殿(五代綱吉公)勅額門で、戦禍を免れ現存する貴重な遺構の一つです。


・根本中堂(本堂)

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徳川歴代将軍御霊廟からすぐの所に、現在の寛永寺の中心ともいえる本堂『根本中堂』があります。本来の根本中堂は、現在の上野恩賜公園内の噴水広場の辺りにありましたが、上野戦争での戦闘で焼失してしまい、1879年に子院の大慈院があった場所に川越・喜多院の本地堂を移築して、現在に至っています。本尊は、比叡山延暦寺を開いた日本天台宗の祖・最澄(伝教大師)自ら彫ったと伝わる秘仏・薬師瑠璃光如来像です。

裏手の書院には、戊辰戦争の際に十五代将軍・慶喜が江戸城を出て謹慎した『葵の間』があります。


・護国院(釈迦堂)

根本中堂を出て、左手に東京藝術大学音楽学部を横目に見ながら真っ直ぐ進むと、東叡山寛永寺最初の子院『護国院』に行き当たります。釈迦三尊像を本尊としたことから〝釈迦堂〟とも呼ばれ、根本中堂が完成するまではこの子院が、本堂としての役割を担っていたといいます。元々は現在の寛永寺霊園の場所にありましたが、徳川歴代将軍御霊廟の建設に伴い、現在の場所に移転しました。三代将軍・家光より奉納されたと伝わる大黒天は〝護国院大黒天〟として知られ、谷中七福神の一つに数えられています。


3.まとめ

今回は上野恩賜公園とその周辺に点在する『東叡山寛永寺』の伽藍を歩いてみました。実に総歩数30000歩……どれだけ本来の境内が広いのかよくわかりました……。

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上野戦争や廃仏毀釈、関東大震災、第二次世界大戦と数多の災禍に見舞われながらも、多くの伽藍は江戸時代のままよく残っており、同じように戦乱や焼き討ちに見舞われながらも〝仏教の総合大学〟として栄え続けた比叡山延暦寺と並んで、まさに〝東の比叡山〟と呼べる信仰の山なのだなと実感しました。

よろしければ、是非このnoteを開きながら上野恩賜公園を歩いてみてください。静寂に包まれたお堂と、馨しい御香、季節の花々…よく知る上野恩賜公園とは違う、もう一つの姿が見えてくると思います。

(追記)
桜まつりシーズンの上野恩賜公園は、人混みがすごくて桜どころではありません…。なので、上野広小路側ではなく、鶯谷駅から寛永寺霊園へ抜けるのがオススメです。人も疎らな中、静かにゆっくりと桜を楽しめます。

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