昌子仁香

専業主婦。前はドラマのシナリオを書いていました。 39歳 結婚。41歳 長男出産。43…

昌子仁香

専業主婦。前はドラマのシナリオを書いていました。 39歳 結婚。41歳 長男出産。43歳 次男出産。子育てしながら再び書く道を模索中。 noteでは40代からの子育てや親子間のコミュニケーションについてなどを中心に発信しようと思います。

マガジン

  • 「ふつうの子」の中学受験

    失敗しない中学受験を志したはずが、まさかの試練大きな受験になってしまいました。 でも、家族で心を合わせて乗り越えて今息子は元気に中学に通っています。 合格・不合格だけではない中学受験の世界を月に1〜2度振り返りながら更新したいと思います。これから受験を考えている方に参考にしていただけたら嬉しいです。

  • 「母」の私

  • 「娘」の私

    娘、としての私の視線で家族を考える

  • 小説勉強

    自分が書くときの参考にしたい記事をまとめています

最近の記事

「ふつうの子」の中学受験①振り返らないための振り返り

こんなに長い一週間はなかった。 2キロ痩せた。 まさかの坂 食べられなくて眠れなかった。文字通り胃がなにものかにごりごりと押しつぶされてなにも通らず、眠れなかった。 後悔と申し訳なさ。そんなものがなにも通らない胃の中でただ蠢いていたけれど息子の前ではそんなことはおくびも出せない。 人生には3つの坂がある。 上り坂、下り坂。そして、まさかの坂。 そんなことは知っていたはずだけれど、まさか、ここで、こんな急斜面に立ちはだかられるとは全く予想もしていなかった。こんな目に遭

    • 「やる気」とちょうちょ結び

      小6の息子は紐が結べない。 なんとか「固結び」はできるようになったけれど「ちょうちょ結び」ができない。固結びって、2回と普通に結ぶやつです。ちょうちょ結びで、一つしか輪ができない方の「肩結び」ではありません。 「ひも」 お茶をやっていて、一応和服を自分で着る私は「紐結び」でドーパミンが上がる。実は。 「紐は鍵なのよ」 時折息子たちに紐結びを教えようとする時、私の脳裏には20年以上前のお茶の先生の言葉が浮かぶ。 茶入れを包む「仕覆」の紐をを綺麗に結ぶには、1年くらいかかった記

      • 好きなことばっかり

        「好きなことばっかりしてずるい」 と言われたことがある人は多いのではないだろうか 私はよく言われた 子供の頃、本が好きだった 「本ばっかり読んでないで、もっと友達と遊びなさい」 「子どもは風の子 外で遊びなさい。」 中学生くらいになると 「本ばっかり読んでないで、家の手伝いをしなさい」 高校生になってラジオでアメリカのトップ40を聴いたり 友達と映画を見にいくようになると 「どうせ聴くならクラシックを聴きなさい。名画を観なさい」 「好きなものばっかり見たり聞いたりしてる

        • 東京って、どこ?

          東京生まれでありながら、「流行の東京」に詳しくない、ことに長い間引け目を感じていた。それは、大学に入ってからあからさまに私の心に宿った。なぜなら地方出身の先輩や友達の方が、私よりも全然「東京」に詳しい!話題のお店も、JJに載ってる服がどこで買えるかも、彼らの方がよく知っていてスラスラ店の名前が出てくる。どうして原宿のお店に迷わずに行けるの?渋谷の通りの名前も覚えられない私はもはや、知ったかぶりすらできなかった。 「えー東京出身なんだ、いいお店教えてよ」 と言われても、私よ

        「ふつうの子」の中学受験①振り返らないための振り返り

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          東京生まれのふるさと

          中途半端だ、と自分のルーツを辿ろうとするといつも思う。 私は東京生まれだ。両親も東京生まれ。祖父母も全員、東京生まれだ。 ということは、私には田舎がない。かといって、すごく古い東京人かというとそうでもない。 父方は五代前まで遡れる。五代前、明治維新の頃に江戸に来て日本橋で砂糖問屋を開いた。他の曽祖父母たちも大体同じくらいの頃に新潟とか、東北あたりから東京に来た人が多い。 ということは、例えば浅草あたりで「うちは江戸時代から十代続く……」というほどの古い江戸っ子、というわけ

          東京生まれのふるさと

          「魔」が育つとき

          傷つけるつもりはなかった……そんなつもりじゃなかった 悪意はなかった、と人はよくいう。でも、本当に悪気はなかったのか? 誰かが誰かの言葉に傷ついた時、大抵悪気はあっただろう、と思う。 例えば「おめでとう!」と言われて、心底嬉しい時と、なんとなくじめっとしたものを感じる時がある。 クリアなおめでとう!は素直に嬉しい。 でも「おめでとう!」の背景に「ずるい」「羨ましい」「なんであんたが……」という思いが潜む時、それは相手にはっきり伝わる。 どんなに「私は女優よ」と思っていて

          「魔」が育つとき

          それは君のせいじゃない

          傷ついたことがあって 友達に打ち明けたら「そんなこと?」と軽く扱われてしまうことがある。 ある時「仁香ちゃんは恵まれてるから、そんなことくらいで傷つくんだよ」 という言葉が返ってきて、私はもう一度、傷ついた。 傷つく、私がいけないの? 母親にこんなことを言われて傷ついた、と打ち明けたら。 「ふうん」と受け流された。 「お母さんは、仁香ちゃんのことを思ってくれてるんだよ」 「ごめん、って言ってくれたんならいいじゃん」 「お母さんのこと、そんなふうに言うなんて。心を開いて話せば

          それは君のせいじゃない

          その人と話すたびに、そこに愛がないと言うことを思い知らされるのは辛いことだ。初めからなかったのか、後になくなってしまったのかさえ、もはやわからない。 力でねじ伏せようとしても、言葉で追い詰めようとしても、真実は変わらない。 愛がないのではなく、無条件の愛がないだけだと自分を慰めた時もあった。愛の反対語は、憎しみではなく、無関心だから、と。 あれほどの激情をぶつけてくるのだから、無関心ではないのだろうと、そう思うことで愛を信じようとしていた。 でも、気づいてしまった。

          怒りじゃなくて

          怒っているわけじゃなくて むしろ呆れてるのに近いのだけれど その人の言動が私の生活に支障をきたすという結果になっているので 「やめてください」と主張するだけで そこにあれやこれやの理屈なんていらないんじゃないかと思う。 それを言い出すと感情が伴ってしまって結局怒らなくちゃいけなくなるので 溜め込まないで、表現していくことで「解決」しようとしている。 解決、しなかったとしても、そこに向けて努力したことで、色々わかってくることがある。 「怒らない」誰に対しても、と

          怒りじゃなくて

          巣立ちはある朝突然に

          冬である。冬はつとめて(早朝)と言ったのは清少納言。彼女の場合は、雪が降っていてもそうでない朝もとても良くて、その寒さの中、忙しく立ち働いて炭を起こしたりするのがとても良い、とつづく。 私も冬の朝は好きだ。でも好きな朝の過ごし方はだいぶ違う。「冬はぬくぬく」。今年、めっきり寒くなってから別室で寝ていた長男が早朝、私の布団に潜り込んでくるようになった。それに気づいた次男も私のベッドに潜り込む。目覚ましが鳴っても三人で「起きよう」「うーん」「寒いねえ」「お兄ちゃん、あっち行って

          巣立ちはある朝突然に

          急がば回れの寝かしつけ〜小学生編

          私の子供は、小学2年生と4年生になった。8歳と10歳。まだ毎晩寝かしつけをしている。 一時、「寝るー」といってさっさと寝てしまう時期もあったのだけれど、最近はまた、ちょっと子守唄を歌ったりお話ししないと二人とも眠らない。 原因は私の方にもある。4年生の長男の視力がひどく落ちたので、いろいろな情報を探した。定期的に眼科に通い、目薬を指しても落ちてしまったのですがる思いで高価な視力矯正の器具も買ったり本を読んだり「良さそう」なものは全て試している。結果、毎晩、二人で目の体操を

          急がば回れの寝かしつけ〜小学生編

          「忘れもの」は届けない〜ママの試練

          私は忘れっぽい。 忘れ物も昔から多い。そのため子供の頃は、母親に世話を焼かれっぱなしだった。「忘れ物ない?」「チケットは?」「ハンカチは?」「ティッシュは?」のべつ問い続けられてかなり口うるさかった。 そんなに大層な忘れ物、例えば 電車の切符や映画のチケット、試験の時の受験票なんていうものは絶対に忘れないけれど、何かちょっとしたものを、忘れてしまう。その日のために新調したハンカチとか、新しい鉛筆とか、そんなようなもの。あるいは、学校で持ってくるように指示された図工用のグッ

          「忘れもの」は届けない〜ママの試練

          温かみのあるひと

          子供の頃、「男はつらいよ」とか山田太一作品を見て「家族ってこんな風に温かみのあるものだ。そうあるべきだ」と考えていた。実際の家庭がそれとはかけ離れていたから、私はその隙間を埋めるのに必死だった。私が頑張れば、喧嘩ばっかりしていても最後は、「とらや」のおいちゃんとおばちゃんのように両親がなってくれると信じていた。 いつそれを諦めたのだろう?と考えてみると、多分、どこかでまだ諦めていない自分がいる。シナリオの師匠が言ったように「子を捨てる親はいても、親を捨てる子はいない」のだ。

          温かみのあるひと

          理解を諦めて、自分を大事にしたら「ありがとう」と言われた話

          去年、noteを始めるきっかけの一つが、一昨年父が亡くなって、弟と母と相続やら片見分けで尋常じゃない揉め方をしたので、気持ちの整理がしたくて書いてみた、と言うのがある。 最初は、「どこもそんなものかな?」とおもっていたけれど、どうも我が家はやっぱり「普通じゃない」と言うことがこの2年でよくわかった。それは私の後半生にプラスにしかならないことなので、本当に良かったなとおもっている。 小さい頃は私のことを「お姉ちゃま」と呼び、いつも屈託なく笑い、私が中学受験に合格したときは、

          理解を諦めて、自分を大事にしたら「ありがとう」と言われた話

          いつも私に背を向ける母の、終のすみか

          今月、母の引っ越しを手伝っている。弟が結婚して新居を実家にすることになったため、母が、昔祖母が暮らしていた部屋に移るのだ。おそらくこの部屋が、母の最後の住まいになるだろう。 家はもともと、三十六年前、父が事務所と倉庫、祖母と自分たちの住まいを鉄筋で建てた家だ。一階が倉庫と祖母の住まい、2階は事務所と私たち家族の玄関、リビング、台所。3階がそれぞれの寝室とお風呂場、ベランダはなくて、洗濯は屋上に干す。事務所、実家、祖母の住まいそれぞれに玄関があり階段が多く、ちょっと複雑な造り

          いつも私に背を向ける母の、終のすみか

          別のくにの人

          色々大荒れだった。 私は自分のそこがとても偉い、と思うのだけれどそういう理不尽とか不可解から、逃げないタイプで、とにかく時間をかけてきた。 それで、わかったのだった。 たまたま同じ日本語を使っているので分かり合えると思っていた私が間違っていた。 使っている言葉が同じでも、分かり合えるわけではない、ということがわかった。 言葉だけでなく、他にも色々と共通するものがあったので、それを縁(よすが)に、いつか必ず分かり合えて、ハッピーになるはず、と思っていた私が浅はかだった

          別のくにの人