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妻の浮気に苦しんだ稀代の音楽家〜『マーラー 君に捧げるアダージョ』

19世紀がオペラの世紀であったとするなら、20世紀は映画と精神分析の世紀であった、とよくいわれます。グスタフ・マーラーはふたつの世紀をまたいで活躍した音楽家で、まずオペラ指揮者として頭角を現し、ついで作曲家としても音楽史に名を残す作品を書きました。彼が神経を病みフロイトの精神分析を受けたことはつとに知られています。またマーラーの音楽がルキノ・ビスコンティの名作『ベニスに死す』で使われて一般によく知られるところとなったことも多くの人が言及していることでありますし、その後も題材やモチーフを供給することで映画に対してなにがしかの貢献を果たしてきました。
このようにみると、やや大仰にいうならばマーラーとは生きていた時だけでなく死んだ後も、19世紀と20世紀の象徴的な人類の文化を体現していたような人物だったといえるでしょう。

パーシー&フェリックス・アドロン父子が共同監督した映画『マーラー 君に捧げるアダージョ』は、マーラーのそのような時代を背負ったような天才音楽家としての人物像を描出することには拘泥せず、もっぱら年齢差の開いた妻アルマとの関係において悦びと苦悩を享受した男の物語を描くことに徹したように見受けられます。21世紀に生きる現代人が観ることになるのは、あくまでマーラーの俗っぽくて嫉妬深い男としての一断面というわけです。

マーラー(ヨハネス・ジルバーシュナイダー)がフロイト(カール・マルコヴィクス)を訪ねる場面からこの映画は始まります。マーラーが苦しむきっかけは妻の浮気相手の男から届いた手紙でした。

すべてはマーラーがフロイトに話す内容としてこの映画は語られていきます。当然フロイトの分析がそこに加えられます。むろん実在したフロイトの分析というよりもアドロン父子の想像的な分析というべきでありましょうが。いずれにせよこの映画の説話構造は「精神分析」的であり、マーラーの音楽や不安はもっぱら妻との関係を反映したものとして言及されることになります。

音楽の使い方もまた精神分析的。この映画では妻の不倫騒動に平常心を失ったマーラーが直後に着手した交響曲第10番のアダージョが全編を通して使われています。エサ=ペッカ・サロネンとスウェーデン放送交響楽団による演奏で、さながらマーラーの心理状態を解きほぐすかのように楽章を構成する個々の声部を分解・断片化した音楽も録音し、それらもまた見事なタイミングで鳴り響くのです。

結論的にいうなら、後期ロマン派から20世紀の無調音楽への歴史的過渡期に生きたマーラーの音楽家としての困難なあり方や時に誇大妄想的で複雑な構成をもつ音楽作品を本作のような単純な図式に還元してしまうことには、あまり共感できません。
なるほどこの映画が採った精神分析的な解釈には鮮やかな切れ味が感じられます。しかし切れれば切れるほどにマーラーの音楽の多義性もそこで切り詰められてしまうのではないか。自分たちに納得しやすい枠組を設定しそこに作品をはめ込んで理解した気になる、理解したような気にさせる──というのは文化的にはいささか貧しい行為というべきでないでしょうか。その枠組に斬新さがなければ、なおさらそうした所業は貧相なものとなります。

マーラー夫妻の周囲を彩る男たち──クリムト、ツェムリンスキー、ブルクハルト──もいかにも薄っぺらで表面的に描かれているし、マーラーの弟子の指揮者ブルーノ・ワルターもただの狂言回し的な役割にとどまっています。世紀末ウィーンの社交界の花だったというアルマ・マーラーを演じた肝心のバーバラ・ロマーナーもどこか垢抜けません。マーラーの関係者に扮した役者たちをカメラ視線でドキュメンタリー映画の証言者風に登場させるのも冴えない演出。前述したように音楽の使い方にはセンスを感じさせるところもありますが、映画としては凡作といっていいでしょう。

マーラーが完成させた後半の交響曲のなかには、全体の統制が行き届かず今日なお低い評価にとどまっているものも少なからず含まれています。しかしそれでもその破綻した音楽のあり方に演奏者や聴衆を惹きつけてやまない麻薬的な魅力が込められているのも事実でしょう。マーラーの失敗作は聴き手の想像力を刺戟する。その意味ではこの映画のいかにも小器用なまとめ方は、反マーラー的という気がしてなりません。

*『マーラー 君に捧げるアダージョ』
監督:パーシー&フェリックス・アドロン
出演:ヨハネス・ジルバーシュナイダー、バーバラ・ロマーナー
映画公開:2010年7月(日本公開:2011年4月)
DVD販売元:ハピネット

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