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「失われた10年」の中で夫婦が得たもの〜『ぐるりのこと。』

誰が言い出したのか知りませんが、バブル破裂後の1990年代はしばしば「失われた10年」と呼ばれています。その10年間を一組の夫婦の危機と再生というドラマを通して描いたのがこの映画。すなわちこの作品では、ネガティブに語られることの多い90年代という時代について、何事かを一方的に失っただけではなく回復したり獲得したりもした一組のカップルのささやかな物語の舞台として再構成されるのです。

90年代から21世紀初頭という具体的な時代を示すものとして、この間に日本で発生した大きな刑事事件が、法廷での関係者の証言(映画では固有名詞は変えられている)という形で言及されています。それはオウム真理教による一連のテロ事件であり、大阪での小学生無差別殺傷事件であり、宮崎勤による連続幼児殺人事件であったりします。

カナオ(リリー・フランキー)は法廷画家として傍聴席からそうした事件の被告人や証人の姿をみつめつづけています。妻の翔子(木村多江)は小さな出版社の編集者。
二人の不協和音は、冒頭、夜遅く帰宅したカナオに翔子が不平をもらす場面で提示されます。長回しによるその会話シーンはなかなか秀逸です。

二人の間に娘が誕生するも、その死をきっかけにして、翔子が次第に精神の均衡を失っていきます。会社での若い非常識な同僚とのトラブルが彼女の病状悪化に拍車をかける。翔子の兄(寺島進)は不動産屋を営んでおり、彼ら家族とのやりとりから90年代の日本経済の変貌が垣間見えたりもします。

カナオは飄々と仕事をこなしながら、心療内科に通う翔子を支えようとします。カナオの優しさに助けられながら、やがて翔子は画家としてお寺の天井画の創作依頼を受け、美しい花々を描き終わる頃には活力を回復して、二人の信頼関係をも取り戻す……。

人々の心が荒廃し、何か大切なものが「失われた」ように思われた世紀末から今世紀初頭にかけての日本社会の片隅で、生きていく希望をあらためて掴みなおし、絆を強めた夫婦のありさまを文字どおり淡い水彩画のように描いてまことに味わい深い作品。

……とまぁ、本作を好意的に論評すれば以上のようになるのですが、本当のことをいうと、私はこの映画をあまり好きになれませんでした。
特に違和感をおぼえたのが、何度も挿入される法廷シーン。世間を騒がせた刑事事件の関係者(主に被告人)──宮崎勤や宅間守をモデルとした人物たち──の異様な発言や振る舞いが描写されているのですが、それらの場面と夫婦の物語との関係が今一つ有機的に絡んでこない。彼らはなさがらカナオの眼前に現れては消えていく走馬灯のごとく、90年代という時代設定を示すための単なる道具立てのようにしか私には見えませんでした。
橋口亮輔監督の、カナオと翔子に注がれる温かい眼差しが法廷シーンでは怪物を見るかのような好奇の色に染められて断片化されてしまう構成には積極的な意義を見出しがたい。

私のような大人はこの映画を観るにあたって、当然ながら90年代の日本社会のあらましを充分に把握しています。ゆえに、法廷シーンがあらわれるたびに、モデルとなった事件の概要を想起して、三面記事的な関心のもとにその場面を観ることになるのですが、たとえば当時の日本の状況をよく知らない外国人や若い人が観るとなると、法廷シーンの意味するところを必ずしも充分に理解することができないのではないでしょうか。

橋口亮輔監督は、この時期の日本社会の様相に失望を感じ、みずからも鬱病を発症して闘病生活を送り、やがて回復したことを公言しています。そうした経緯を思えば、監督がこの作品を撮ろうとしたことはよく理解できるし、シネコンの大掛かりな配給・興業ルートに乗らず、細々と上映しているこのような地味な作品を積極的に支持したい気持ちはやまやまだけれど、監督の思いがこの映画にきっちりと昇華されているかどうかは疑問といわざるをえません。

*『ぐるりのこと。』
監督:橋口亮輔
出演:木村多江、リリー・フランキー
映画公開:2008年6月
DVD販売元:VAP

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