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雲の切れ間からわずかに差し込む陽光のような映画〜『フローズン・リバー』

厚ぼったい雲が空を覆うどんよりとした川沿いの町。冬場は表面が凍結してしまい、クルマで横断することのできる川の向こう側はカナダ。その間に国境をまたぐようにネイティブ・アメリカンのモホーク族の保留地が存在する。保留地は治外法権的なエリアで、米国やカナダの警察は基本的に立ち入ることができないらしい。

「川」が映画に登場する時、対立する二つの社会や共同体を隔てるものとして表象されることがしばしば見受けられるのですが、水面が凍りつくことによって往来することが可能となる事態は、「川」を単なる社会的な障害の隠喩にはとどまらない存在に押し上げます。すなわちこの映画にあっては、川(=フローズン・リバー)は異なった社会の溝や境界を表象するだけではなく、同時にひそやかな交通のためのルートとしても機能していて、その意味では多義的な舞台装置として立ち現れるのです。

新居を購入するためのお金をギャンブル好きの亭主に持ち逃げされた白人女性レイ(メリッサ・レオ)と夫に先立たれたモホーク族のライラ(ミスティ・アップハム)。レイは二人の子供を抱え、1ドルショップで働いているものの、テレビのリース料を払うのにも苦労している。かたやライラの方は目が悪いためにきちんとした仕事に就くことができず、幼い子供は義母のもとで育てられています。そんな二人がひょんなことから出会い、保留地内のフローズン・リバーを行き来して不法移民の手引きをするという裏稼業の共犯関係をもってしまいます。

パキスタン人カップルの密入国者を運んだ際、彼らが持ち込んだ大きなバッグをテロ用の武器と思い込んで、レイは途中で捨ててしまう。けれども引き渡し場所に到着したとき、実は子供が入っていたと知り、あわててバッグを取りに戻る二人。すでに子供は動かなくなっていたのですが、帰途、ライラの身体の温もりでもそもそと動き始める……。この一連の場面展開は女性監督コートニー・ハントの温かい息吹と繊細な世界認識を感じさせる素晴らしいシークエンスではないかと思います。

当初は銃を向けあうなど文字どおり凍りついたような二人の冷たい関係が、次第に溶け合っていき、やがてはフローズン・リバーのうえを一陣の温かい風が吹き抜けていくような映画。……標題に即して要約してしまうと簡単だけれど、その過程がこれといった破綻もなく描写されていて長編第一作とは思えない手腕を感じさせます。あえて書いてしまいますが、子供たちとライラの雪解けを思わせる爽かな表情を捉えたラストシーンが何より私は好きです。

犯罪者を主役に据えて社会の暗部に光を当てようとする視点は、60〜70年代に沸き起こったアンチ・ハリウッドの監督たちによる「アメリカン・ニューシネマ」を想起させもします。が、派手な銃撃を受けて倒れるボニーとクライドやイージー・ライダーの自己破滅的な終幕ではなく、コートニー・ハントは厚い雲の切れ間からわずかに射し込む陽光のような希望を込めたエンディングを提示しました。そこに、米国の21世紀ゼロ年代を、あるいはその時代にインディペンデント作品でデビューした映画作家のスピリッツを見てとれるように思えるのです。

*『フローズン・リバー』
監督:コートニー・ハント
出演:メリッサ・レオ、ミスティ・アップハム
映画公開:2008年8月(日本公開:2010年1月)
DVD販売元:角川映画

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