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「学ぶ」ことの多義性をめぐって〜『おじいさんと草原の小学校』

映画『おじいさんと草原の小学校』(原題 “The First Grader”)を観終えた時にじわりと押し寄せてくる感動の味はほろ苦い。

2003年、無償教育制度をスタートさせたケニア。赤茶けた土壌。風に舞いあげられる土埃。それらをみおろす青い空。そんな草原地帯に造られた小学校を舞台に、子供たちと一緒に入学して読み書きを勉強し始めるおじいさんと、校長先生、子供たちの交流が描かれます。

すべての人を対象に無償教育を始める。そのニュースをラジオで聴いた84歳のキマニ・マルゲ(オリヴァー・リトンド)はさっそく地元の小学校を訪れる。入学手続をする人々で鈴なりになっているなか、マルゲはあっさりと追い払われます。翌日もマルゲはやってきました。やはり中に入れてもらえない。校長のジェーン(ナオミ・ハリス)は入学するには制服と指定の靴が必要なことを告げます。授業料は無料でも準備にそれなりの負担を強いられるのです。
マルゲは制服と靴を調達し、再び校門の前に立ちます。根負けした校長は周囲の反対を押し切って入学を許可します。けれども予算が不足し机の数も足りていない状況では、老人が学校で学ぶことに「子供たちの教育がおろそかになる」などと異論も噴出。授業を妨害しにくる人々。校長にいやがらせの電話をしてくる敵対者。マスコミに取り上げられ有名になったマルゲを利用しようと企む政治家。マルゲと校長の前に様々な障害が立ちふさがります……。

それにしても、子供たちの生き生きとした表情が何より素晴らしい。子供は社会の宝という格言がこの映画をみると実感されます。教育への情熱を一身に体現したような校長に扮するナオミ・ハリスもなかなか魅力的。マルゲを演じるオリヴァー・リトンドはケニア出身で元ニュースキャスターというユニークな経歴をもつ俳優です。英語と現地語(キクユ語)を話すむずかしい役柄とあっては、欧米で生まれ育った俳優に演じることは無理だったでしょう。

われわれ人間社会にとって、教育が、学ぶ意欲がいかに大切か。マルゲやジェーンに託して見事にそれを表現した。
しかしそれだけなら私はこの映画に賛辞をおくることはなかったでしょう。いやむしろ批判したかもしれません。個々人の勇気や意欲を顕揚する類の実話を美談として語ることで、もっと重要で深刻な問題が隠蔽されるのではないか、と。無論、この映画はそうではありません。何故、マルゲのような老人があらわれたのか。当然、ケニアの歴史的背景抜きには語れません。

マルゲはかつてマウマウ運動(ケニアのキクユ族、エンブ族、メルー族、カンバ族の人々が結束して始めた独立運動)に闘士として参加しました。その運動は苦難の道をたどりました。マルゲは眼の前で妻子を殺害され、みずからも苛酷な拷問を受けたという過去をもちます。とても学校で読み書きを習うような状況ではなかった。独立後も、様々な対立があった。当然ながらマルゲがこれまでに受けた心身の傷は今もなお癒えることを知りません。

またケニアの部族間対立は単なる内輪もめとはいえないことも指摘しておかねばならないでしょう。西欧列強がアフリカを植民地支配するにあたっては複数の部族が存在していることにつけ込んで巧妙に「分断統治」したことはよく知られています。アフリカの「部族主義」は植民地支配の産物という見解もあるほどです。もちろん映画ではそうした歴史の機微が詳細に描かれているわけではないけれど、宗主国として圧政を行なった祖国の暗い過去を、英国人監督のジャスティン・チャドウィックをはじめ英国人が核となっているスタッフは決して見過すごすことはしませんでした。
かくして、マルゲの過去、ケニアの苦難の過去はフラッシュバックによって描出されるのです。マルゲたちに暴力をふるう英国人兵士の姿ももちろんはっきりと映し出されます。

世界最年長の小学生としてギネスブックにまで掲載されたマルゲの学習への渇望のありようは、一通の手紙によって巧みに表現されています。
それは独立直後にマルゲのもとに届いた大統領府からの手紙。英文で記されたその手紙をマルゲは読むことができません。そのシーンが開巻早々に提示されます。彼はその手紙を自力で読みたいと思った。だから小学校無償化のニュースが飛びこんできた時、子供たちに交じって小学校へといそいそ出かけたのです。

終盤、再びこの手紙にスポットライトがあてられます。当然、マルゲが自分でこの手紙の内容を理解することをもってこの映画の締めとするのかと思いきや、そうではありませんでした。マルゲは今もまだ自力でこの手紙を読むことができず、転勤地から再び「草原の小学校」に帰ってきたジェーンのもとに出かけるのです。ジェーンは同僚の教師に代読を依頼します。そこには、マルゲの闘士としての活動に敬意を示すと同時に賠償金を受け取る権利のあることが記されてありました。独立後の混乱のためにその通達はいわば有名無実化しており、マルゲがその後も苦労を重ねてきたことは、すでに映画のなかで描出されてきました……。

マルゲは学ぼうとしました。何を。かつて自分たちを支配した宗主国の言語を。そしてその学習が未だ途上であること、且つ自分で読みたいと切望していた手紙の内容が一つの建前を述べただけのものであったと知ることをもって、この映画は終わるのです。この映画のエンディングは単純なヒューマン・ドラマのそれとは趣を異にする、ほとんどアイロニーとさえ呼びたいほどのものです。
さらに付け加えるなら、こののちジェーンたちの仕事が順調に進んだとき、マルゲが話すキクユ語などの現地語は絶滅の危機に瀕していることでしょう。(マルゲがキクユ語の「ウフル」とその英語「フリーダム」を連呼して、子供たちがそれに唱和するシーンはこの映画で最も印象的なシーンの一つです。)
冒頭で「ほろ苦い」味と私が述べたのはそうした諸々の事態を指していることはいうまでもありません。

繰り返します。これは単に人を元気づけたり、心を温めたりするだけの映画では決してありません。また教育や学習の重要性を毅然と訴えただけの映画でもありません。それだけならわざわざこの映画を観るまでもないでしょう。その程度のことなら他に代わりはいくらでもあります。

国民の言葉とは何だろうか?
それは自分たちで主体的に選びとることができるものなのだろうか?
そもそも言語を習い覚えるということには、いかなる機制が働いているのだろうか?
われわれは何のために争っているのだろうか? 異なる部族の存在が邪魔だから? 異なる言語を話す人々の存在が疎ましいから? 自分たちの大地を奪い取る者がいるから?…………
そうした幾重もの問いをこの映画は観た者に問いかけてきます。
映画『おじいさんと草原の小学校』はすぐれて普遍的な主題を声高らかに謳いながら、同時に欧米諸国に蹂躙された人々にのしかかる「学ぶ」ことにまつわる葛藤や錯綜についても声低く言及しているとみるべきでしょう。

マルゲやジェーンの勇敢な振る舞いの背後に見え隠れしている様々な問いかけを少しでも受けとめて思考への契機としなければなりません。

*『おじいさんと草原の小学校』
監督:ジャスティン・チャドウィック
出演:ナオミ・ハリス、オリヴァー・リトンド
映画公開:2010年(日本公開:2011年7月)
DVD販売元:アミューズソフトエンタテインメント

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