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TwitterのDMを開放した

 TwitterのDMを開放した。

 毎日、数十件ほど、知らないアカウントたちからメッセージが届く。飼っている猫の写真や道端で見つけたちょっとおかしな看板の写真、紫陽花や綺麗な空といった写真を送ってくれる人もいれば、込み入った恋愛や仕事の相談を長文でしてくれる人もいるし、たった一言だけ、意図が一見読みづらい短文を送ってくれる人もいる。そしてそのどれもに、頼まれてもいないのにせっせとひとつひとつ返信をしている。とても丁寧な返信とは言えないが、何かを気に入ってくれたのか、毎日のようにメッセージを送ってくれる人も何人かいる。

 私がDMを開放したのは、ただ知らない人の生活に触れたかったから。今日何を食べたとか、腕時計を新調したとか、すきな人と目が合ったとか、近所に新しいスーパーができたとか、五時間目が眠かったとか、そういうあまりにも私的な物事を知りたいと思ったから。一生関わることのなかった他人の人生の、その人にとっては語るに値しないささやかな日々の記憶。その一端に私が手を添えることで、その記憶を光らせよう、いやそれは傲慢すぎるかもしれない、ただ、いつかは忘れるその記憶を、私にただ教えてほしい、そう思った。

 そもそもTwitterはそういうツールで、各々が好き勝手に好きなことを呟いている。私はそういうあまりにもプライベートなツイートを読むのがすきなのだけれど、最近は品のないアフィリエイトだったり、何やら難しいことを議論したり、意見の食い違いで喧嘩をしている人をよく見かける。それらを否定はしない。でもそれらのおかげで、断片的な日々のツイートが見つけづらくなってしまった。じゃあ、私に送ってもらえばいいじゃない。そう思って始めた。

 いつか行った街。いつか食べたもの。いつか話した友人と、もう一生会うことのない誰か。いままで経験してきたことと、いつか交わした会話と、いつか触れた言葉と、いつか零した涙と、いつか見た何か。全部忘れてしまったけれど、それらを少し思い出すような、そんな気分が知らない誰かとメッセージを交わしていると感じる。今まで自分が経験してきたものでしか形作られないと思っていた「記憶」というものが、誰かによってかんたんに書き換えられていく心地がする。一見不愉快に見えるそれが、手触りのよい感触をもって私の眼前に立ち現れてくる。忘れていたなにかを、記憶の砂の中からそっと掬いあげてくれる。

 小学生の頃の夏祭りの匂い。誰もが皮膚の表面に微熱を纏わせて、幾千に広がる光の中を漂っていた。何もかもが許される、二日間の熱狂の夜。温かい食べ物と冷たい飲み物を買って、花壇の縁に座ってずっと話をしていた。グラウンドに設置されたラジカセから盆踊りの音色が聞こえて、プールサイドには嬌声がいつまでも響いていた。ずっと、あの夜の中にいたかった。あの夏にいたかった。

 記録的猛暑だって、来年になれば愛しい夏。みんなきれいな夏しか覚えていない。


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