言葉というものは 自分が聴ける体制になっていなければ何も響かない 心に余裕がなければ響くことはない いやなことがあったとする 考えてばかりいると小さな狭い空間にいることで良い考えが浮かばない 結果を恐れずにまずは一歩踏み出してみることだ 何かをやってみると、ひとは気づく 一時的なそのひとへの対応を変えるなどの その場しのぎの取り繕いの気づきじゃだめだ それは気づきじゃなく、単なる対処でしかない ひとは困るとこんなことをするんだなぁ このひとも自分を守るために精一杯なんだなぁ
我(われ)ここに在り 自分がここに在るということ 自分の存在を感じることは生きるうえでとても大切だね 存在しているという想いを自覚すると自信につながり 存在しているという想いを周囲に求めると不安になる 我(が)を強め、自分を粗末に扱ってほしくないと思えば まるでそこに存在しないかのごとく扱われたりする だれの心にも潜むこの自分の外に向かう想い それが自分を弱くし、傷つけることを知る 自分も周りのひとたちにもそんな求めがあることを知る わざわざ、ひとに認めてもらわなくたって 好
どんなに罵られようと どんなにその存在を無視されようと 自分が在ることに変わりはない 今年も桜は何事もなく咲いている 今、まさに目の前で自分の役目を果たしている 厳しい冬に耐え 温かい大地に根をしっかりと這わせ 暖かい陽の光をあびて 誰に褒められることがなくても 枯れまいと何度も想い 自分のペースでつぼみを膨らませ 花を咲かせることだけに 自らの命を生き尽くしている 八
明日から4月じゃな。 はちべいよ、わしから伝えたいことをずっと話させてもらったが、 明日からは、はちべいが他愛もない思いをブログにしていけばよい。 わしからは、十分に思いを伝えさせてもらったからのぅ。 (本当はもうだいたい語りつくしてしまったわい(笑い)) 最後に、ババから特に若い人たちに伝えたいことがある。 今の世の中、わしも含めて大人が良くない。 自分が我先にと周りを蹴散らして順番を争ったり、若い人がしてくれるサービスに苦情ばかりを言ったりと、人生の先輩として何も手本とな
ひとには与えなさい、ひとに施す行為は布施(ふせ)と言われてひとの徳とされとる。 しかし、これは単に与えると与えられるということではないんじゃ。 授かるとは、ひとに施したものよりもっと高尚なものをめぐりめぐって頂くということじゃ。 人間目線で、与えられたものをすぐに目に見えるそれ相応の得として、与えてもらおうとするから返ってこない時に腹が立ったり、相手を嫌ったりするんじゃ。 わらしべ長者という話をはちべいは知っているかのう? ひとりの欲のない男が困った人を助けるお話なのだが、持
まずは強く心で思うこと。 もっと大変なのが思ったことを行いとして実行するということじゃ。 こころと行動のあいだに感情があるため、感情はやりたくないと怠ける。 やる気にならないという怠慢や落ち込みやいまはまだやらないけどという慢心が生まれ、これらによって行いに移すことを鈍くするんじゃ。 事を成すは行いなり。 一つのことを成すとは、行いを何度も何度も繰り返して、やっと大成していくものじゃ。 習い事も仕事も自分がしていくことというのは、すべてそうじゃ。 すぐには習得できないものなん
なにも、嫌でしょうがないのに笑顔を振るまったり、相手にやさしくしなさいということではないのじゃ。 因と縁ということばがあじゃろう。 どちらかが、ほんの少しでも変われば結果は少しずつ違ってくるということじゃ。 相手も挨拶をしない。だから自分も挨拶をしない。この結果はお互いに冷たい空気が流れてしまうのう。 相手が挨拶をしない。しかし、自分は挨拶をする。この結果は何も変わらなくみえるかもしれん。 しかし、それを見ている周りのひとの考えを変えたりしているんじゃ。 お互いに挨拶をしなけ
根本に相手への想いがあること 根本に相手を信じていること 根本にその陰にはやさしさがあること 根本に相手を見捨てるものではないこと 根本にその思いが無償であること しかるとは、感情から怒ることではなく、心から怒ることじゃ。 これから怒ろうとするとき、相手に向けられた愛情があるかないかを想いなさい。 なにを想って怒っているのかも相手にはちゃんと伝わっているのじゃ。 どんなに理屈を並べてみても、なにを想っているのかは伝わるものなんじゃ。 気をつけなければいけんぞ。 見えないからと
帰ったら、話したいことがいっぱいあるよ はじめての景色 寄り道がくれた出会い 食べ過ぎたごはん 迷ったおみやげ 楽しい時間はあっという間だけど わたしの旅は思い出になって ずっと心の中にあるんだ これは、ある日地下鉄の中で観たポスターに書いてあった言葉です。 何となく好きで少しワクワクしませんか。 ひとの人生も旅にたとえられるように こんな感じで旅したいなぁなんて思うんだ。 決していい加減に考えた方がいいと言っている訳じゃないけど、 色々な辛い問題を抱えているあなた。 自分の
気づくということはとても大切なことじゃ。 なぜかというと、一言で言ってとても建設的で意味があるからじゃ。 ひとの言葉や行いを見たときに、人間というのは瞬間的に好きか嫌いか、良いかそうではないかという判断をしたり、何かと比べたりするんじゃ。 つまり自分の外に目がいきやすいのじゃ。 しかし、そんなことをしても何にもならないと思わんか。 それよりも、今の自分に取り入れられることはないか、何か改善することでもっと自分が良くなることはないか、今の自分がひとにできることはないかという気づ
ひとによって態度を変えるひとっているよね。 ●絶対に損はしたくない。 ●自分を見せずにひとは信じない。 ●得のあるものを利用するのが処世術だと思っている。 こんなことを自然に思って生きているんだろうね。 その場しのぎの、まったく先のことは考えていない生き方だなぁ。 こんなひとは自分が納得しているからべつに否定はしないけど、 これからもきょろきょろと損得で判断して生きていくんだね。 少なくてもそばには寄りたくないね。
ひとは一緒にいると慣れてきて、相手の悪いところが目についてくる。 ひとと比べて不満に思い、昨日の友が今日の敵になったりする。 ひとの触れてほしくないところに興味をもつ。 ひとの良くないところを裁判官にでもなったつもりで裁く。 しかし、自分たち以外のとてつもない脅威にさらされると、途端に仲良くなったりして団結するものじゃ。 自分の心がコロコロと変わることを知っている人間は、安心や味方を求めてしまうんじゃ。 心のよりどころというやつじゃ。ひとは友や恋人や家族を求めるようになる。
見ようと思わなくても見えてるのが「見る」 心を傾けて注意しながら見ることを「観る」 聞こうと思わなくても聞こえるのが「聞く」 心を傾けて注意しながら聞くことを「聴く」 心を傾けることによって、相手は自分の存在を認められたことに満足し、自分に関心があることに安心するんだ。 ひとの話を聞くときには、相手の目をしっかりと「観て」、しっかりと耳を傾けて「聴く」ようにしたいねぇ。 ぼくの弟のきゅうべいは「落としのきゅう」と言われるほど、有名な刑事なんだ。 不思議に思ったぼくは、あるとき
ひとの目に見えないものは存在しないのか? いや、確かに存在する。視覚に見えないだけだと思う。 なぜなら、ひとに愛されたり、親切(愛情や思いやり)にされたりすると された方は感情を通して(感情の目で観る)感じることができるからだ。 視覚的には見えなくても、たしかにそういう「気」みたいなものの存在をあるものとして認識できるからだ。 だからされた方は嬉しくなったり、ありがたく思ったりしてこころに響くのだと思うんだよ。 ひとには三つの目がある。 ひとの目は綺麗な景色や自然、自分の
我 この世で自分が一番とおもう心 自分自身を守る心 慢 すきかきらいかを判断する心 人と比べる心 ひとはひとりの時間もひつようじゃが、集団の中に身を置いて暮らしていかなければならないものじゃ。 ひとりのときは、たまたま自分と合わない相手なんかに出会ったら、そのまま離れればいいなぁ。 そして、良くないことをしそうになったら、自分への戒めである「戎」を思って正せばよいのじゃ。 ただ、ほとんどの人間関係といわれるものは当然のごとく集合体の中で起こる。 なぜかと言うと、ひとつの目標
「赦しあって、僕らはつながっていくんだ」 これは、小田和正さんの歌の歌詞の一文じゃが、わしもそう思うんじゃ。 人間関係についてはたくさんのひとが悩むところだと思うが、最後は自分のなかでどこに落としどころをつけて明日に向かっていくかということだと思うんじゃ。 先人たちが、宗教や心理学などの観点から様々な考え方を示しているのう。 わしは別に何かを信仰したり、特別なライセンスを取得している人間ではないが、わりと日本古来から伝わっている仏教の「自分もひとも何度も赦しあい、ともに生きて