巡り会えたこと-宝君の話(3)

 縹剣(ハナダツルギ)の職業は声優・ナレーター、そして声優教室を開く講師でもある。

 20年以上声優として活躍する彼も、経営者としてはまだ3年程しか経たないという、素人同然だった。

 それでも有難い事に、教室はそれなりの反響を呼んでいる。

 その理由を幾つか上げるとするなら、一日に2回各3時間というプロになる為のレッスンが受けられること。

 だからといって、詰め込み式ではなく、一人一人にあったレッスンが出来ることが一つ。

 二つ目は、良い講師に恵まれたことだろう。

 多い時で20人程度の生徒を教えるのに対し、講師は常に剣を含む4人体制で指導している。

 講師は皆、実際の現場で活躍するプロ達だが、必ずこの講師が教えるという、固定した人は特に決まっていない。

 それは剣が色々な人と交流して欲しいとの願いからだった。

 考える(目標等)事が一緒なら、皆で楽しく生徒達を育てよう・・・

 この思いが講師を務めたいと考えている人にも、教えて貰っている生徒にも伝わって、皆仲が良く教室へと通っている。

 何よりも、特に声優を目指していない人達ーその人達は、主に平日の午前中に予約を取る事が多いーも受け入れている事が、一番の人気の秘密だろう。

 若い時に夢を実現出来ずにいた人が、プロにレッスンを習う事が出来るだけでも、嬉しいものである。

 そんな優しさが溢れる教室だからこそ、自然と集まるのではないだろうか。

 さて、家に辿り着いた二人を待っていたのは、玄関で出迎えた剣の妻である縹扇(ハナダオオギ)だった。

 彼女の前に立つと、いつもいい香りがする。

 その香りは気のせいか何処かで嗅いだような
気がする。

それに気づく度、思い出したくない人を思い出してしまう。

「妲己が何故ここに・・・?」

 先程教室で明日の授業の用意を手伝った疲れと、扇の放つ香りのせいで、頭がはっきりしない宝が、ここにはいない人物の名を口にする。

 しかし扇は彼の言葉をいつもの事と聞き流し
「宝君、今何時?」
と、時間を訊ねた。

「夜の8時・・・です」

 宝は微妙な空気を感じ、声が段々と搾んでいく。

「門限を作ると自由を妨げる事に繋がるから、作らないって剣さんと決めたけど、ここのところあまり守ってくれないみたいだから、今日ちゃんと話し合いましょう?」
「・・・今日はちょっと理由があって」
「遅くなる理由があったのなら、電話の一本や二本ぐらいかけてくる事が出来たでしょう?」

 扇は静かな口調でそう告げて、宝がどのような反応をするかを待つ。

「・・・」

 何かを言いたくても、彼女の放つ花の香りのと、その中にほんのりと香る蜂蜜の甘い匂いせいで、口を開くことが出来ない。

「扇、宝はおれと一緒に明日の授業の用意を手伝って遅くなったんだ」

“心配なのはよくわかるが”

 そんな言葉を付け足して、立ち竦む彼の代わりに、剣がすかさず助け舟を入れた。

 だが、それもいつものことなのだろう。

 扇は瞳を潤ませたかと思うと、今までの不安を堰を切ったかのように喋り出す。

「1年前に倒れて入院したから、今日も何処かで倒れていないか心配になったの!」

(ああ、また迷惑を掛けてしまったようだのう・・・)

“やってしまった”という気持ちが、宝の心を闇の中へと誘(イザナ)う。

 実は1年前に顔面蒼白だった宝を、彼等が助けたのだ。
それが彼女にとって今でもトラウマになっているようだ。

(本当の母上も、こんなふうに心配したのだろうか?)

 宝は内心で不安そうに呟き、突然頭を下げて
「申し訳ない、次からは遅くなることが分かったら、必ず連絡を入れる!」
と、必死に謝る。

 そして徐ろに顔を上げ、潤んだ瞳でまだ不安が消えそうにもない扇を見つめた。

“こういう時は自分から先に謝った方が勝ちなのだ”ということを、彼は良く知っている。

 心の中で“してやったり”と呟いていることも知らずに、宝の反省する姿を暫くじっと見つめ
「分かったわ・・・」
と、“私の負けね”とでも言わんばかりに、扇はこれ以上小言を言うのを辞めた。

 しかし、これも彼女の策略だということを、今の宝の体調では、気付けるはずもなかった。

「ご飯を温め直すから、一緒に食べましょう」

“早く手を洗ってらっしゃい”と、優しさと少し呆れ気味の声で、動かない二人を促す。

 宝は言われた通り玄関を上がり、扇と擦れ違いざまにちょこりと頭を下げて、反省の色を見せ続けながら、奥へと姿を消していく。

 そして剣と扇もまた、小さな笑みを浮かべて、彼の後を追うかのように、ダイニングルームへと足を運んだ。

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