人間の限界とこれから

はじめに

少し前に私はこんなツイートをした。

さて、現代社会では多くの問題が(可視化され)議論されている。代表的な例を挙げると

・差別問題(多様性)
・人口問題
・環境問題
が挙げられる。

もう少し掘り下げていくと、人種差別問題やジェンダー問題、障害者問題等があるし、人口問題に関しては先進国では少子化、発展途上国では過剰な人口増加問題に対面している。環境問題は言わずもがな地球温暖化なんかが思い浮かんでくる。

これらの問題に対する議論と言うのは結構活発に交わされている。時には激しい論争になっていたり、社会を大きく巻き込むような運動にまで発展している事もある。しかしこうした諸問題の根本的な原因について議論したり考えたりしている所をあまり見たことがない。もっとも環境問題なら環境面からの解決を、差別問題なら差別構造から解決していくのが良いはずだろう。ただ私はそれらについて個々に議論するのみでは完全には解決されないのではないかという疑念がある。同時に私は現代社会における数々の問題はそれぞれが独立したものではなく、ある共通した原因、それも単純かつ根源的な要因というものがあるのではないかと考えている。

それは、人間は動物としては既に限界なのではないか、という事である。

ちょっと哲学みたいな話になってしまうが、人間に限らず地球上の生物は常に問題を抱えている。最も原始的なものは、食物を得ることが出来るかどうか、捕食されることなく生き延びることが出来るかどうかという問題があるし、もう少し全体に焦点を向けるとその種が絶滅せずに保存出来るかどうかという問題がある。しかし大多数の生物は日々そのようなことを考えたりしているのだろうか?もちろん大多数の彼らにはそんなことは意識に上っていないだろうし、それ以前に考えることが出来るのかも分からない。

問題の発見

問題を発見するという事は少なくともある程度の認知能力が必要だ。そして認知能力を持つものは問題を見つけてもそのままにしておくという事には出来ないだろう。恐らく解決への糸口を模索することになる。

この点が重要になる。私たちの生きる社会は問題だらけであるかのように思える要因の一つは我々人間社会の問題発見能力の高さにあると言ってもいいかもしれない。人口問題なんかはよい具体例だ。ある環境が抱えられる以上に増殖した生物や逆に絶滅の危機にある生物というのは比較的見受けられる。しかし彼らは一部を除けばそのことを意識したりせず、やがて自然の法則に従い個体数は減少していく。環境を破壊しているから子孫を残すのをやめようとかは微塵たりとも思っていないだろう。これが一般的動物の在り方だ。一方で人間はというとそうはいかない。日本の社会で言えば、少子高齢化は現在も加速度的に進行しており、今後のこの国の在り方に大きな影響を与える問題でもあるため、政府は日々様々な解決策を模索している訳である。我々がこうした能力を十分に持っているという事はある意味で幸運だと思ってよい。

不完全な問題解決能力

ところが人間には問題を発見する十分な能力があってもそれを解決するための十分な知識や知恵を有していない事がある。我々は科学技術や基礎科学に対する莫大な知見を有しているのにも関わらず未だに治療すらままならない難病は数多くあるし、ましてや人口問題、環境問題、差別問題などは一向に解消される気配を見せない。しかも前者はこれからの科学の発展に期待できるが、後者の問題は複雑な要因が社会と絡みあっているのだから一筋縄ではいかない代物だろう。

問題は見えるのにそれを取り除くことは出来ずただ耐えるか、何が正しいのかすらも分からない議論の渦に飲み込まれるかの二択しか与えられない。私たちは何とも歯がゆいところに立たされているのだ。

ところで我々には問題を解決するための能力として一体何が足りていないのだろうか。問題を発見することは出来ているのだから少なくとも十分な認知は有しているはずである。何が必要なのだろうか。

理性の欠如

私はこの問題発見能力と解決能力の不均衡さの原因は人間の理性の欠如にあると考えている。ここで人間における理性というのは、理性という言葉そのものの意味を考え、

概念的な事物を理解し、行動に移すことのできる能力

と仮に定義してみる。

認知と理解は似ているが行為としては別物だ。何らかの現象を理解するには現象の認知が必要だが、それを認知したからと言って現象を理解したとは必ずしも言えないだろう。

個人的には人間の理性は他の動物とほとんど同じか幾分か高いかの違いでしかないと思っている。正確には、我々が暮らしているこの科学文明社会で生きていくために必要な水準に対してまだ不十分であると考えている。故に先に挙げた諸問題は議論されつくしても打開策が見つからないのである。

そもそも社会が人間の理性に期待しすぎではないかという思いがある。差別問題に対して「差別は許されない」と言うのはもっともだが、それだけで解決するはずがないというのは火を見るよりも明らかだ。人間は普遍的な価値観など持っていないし、偏見にまみれている。それどころかどこまで差別でどこから差別でないのか、どこからが当事者でどこからが第三者なのか、その分別すら誰もつかない。冷静な議論など到底不可能だろう。

その意味で私は啓蒙思想は間違っていた、と言いたい。

目指す先は

では私たちはどうすればいいのだろうか。

理性を持たない動物としてこのまま生きていくのもともあれ一つの道である。ただその場合、諸問題は全く解消されることなく苦痛と不安に満ちた社会に生きていく事にはなるだろう。文明社会を捨て去るのも悪手だ。それは何一つとして解決には至らず、ただ逃げるだけである。というか無理だ。

となるとやはり理性を養っていく方法しか見当たらない。しかし私は全人類が理性を持ち合わせているような社会を構成するのは難しいと予感している。理性というのはある意味心の持ちように依る部分がある。

ところで人間は何よりもまず自由意思を持っている。各々の意思の方が遥かに強いのだから、彼ら全員に理性を持たせようとしても中々上手く行くことではないはずだ。そもそも理性は強制力ではなく自発的に得るもので、無理矢理与えたりする方法では不適当だろう。

それよりも私は人間の適応力の方に目を向けたいと思う。人間社会の諸問題は社会の急激な変化によって生じたが、何も全ての人が社会に適応できなかったわけではなく、程度の差こそあれ多くの人は現代の社会に馴染んでいるはずだ。デジタル社会になってからほんの数十年しか経っていないが、我々は皆パソコンやスマートフォンを含めたコンピュータを生活の一部として大いに活用している。明らかにそれらはこの地球史上において異質な存在であるはずなのに、である。

この例え異常なものであってもいつの間にか自然なものとして認識し取り扱う事の出来る人間の(人間に限らないが)適応能力を鑑みて、私は人間を取り巻くシステムを大きく改造する事が唯一の解決策への足掛かりになると考えている。ここでのシステムというのは出生から死までの一連の人生の過程を含めた生物としてのシステム、そして社会のシステムの事である。

そしてそれを達成することで私たち人間はもっと自由度の高い、理想的な社会に足を踏み入れることが出来るのではないかと期待している。

具体的な話はまた別の機会に述べたいと思う。

それではまた。


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