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歳をとると、周りに死んだ奴が増えてくる。

自然の摂理であり、全ての人がどこかのタイミングで、友達が死ぬ数が友達が増える数を追い越す瞬間がある。

これを70を過ぎた人が書いているならいいのだが、残念ながら自分はまだ20代だ。

初めて「友人の死」に直面したのは25の時だ。これは初体験としては遅めなのかもしれない。
高校を卒業して以来会っていなかった同級生の結婚式に呼ばれ、参列者であった同じく卒業以来の同級生たちと喫煙所で思い出話をしている時、何の気なしに現状を聞いた友人が死んでいた。

特段仲が良い友人ではなかったが、「死」という現実が急激に身近に擦り寄ってきたようで、タバコの煙を吐き出しながら少し震えた。

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基本的に、「死」に対して人は無力だ。医師免許を持っていない自分は尚更そうだ。
さらに言うなら、高校を卒業してから一度も連絡を取っていない、当時もさほど仲良くなかった友人の死であれば、無力と言うのも烏滸がましいほどである。
それでも「死」に直面すると、当時受験で思い悩んでいた彼に何か声かければよかったかな、とか、卒業後にLINEのひとつでも送ればよかったかな、とか、何か自分の落ち度を探してしまう。そしてそれっぽい落ち度を見つけて、軽くへこんでしまう。

そんな選択が当時取れるわけがないのに。

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数年経ち、他にも僕の周りの何人かが死んだ。
交通事故、病死、自死、理由や死に方は人それぞれだが、その度に僕は落ち度探しをしてはしばらく軽い鬱になる。
しばらくするとケロッと忘れてしまうのだが、折々でその人のことをふと思い出し、また軽い鬱になる。

これが「死」の持つパワーだ。そのうちもっと自分に近い人が死んで、僕は落ち度を見つけて、重めの鬱になるんだろう。

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基本的に、「死」に対して人は無力だ。
たとえ自分の妻が死んでも、恐らくはその結果に対して自分は何も関与しておらず、自分勝手な落ち度を見つけて悲しむんだろう。

馬鹿馬鹿しいな、と思いながら、ペットの死の翌日にこの文章を書いている。
巨大なパワーを持つ「死」を消化するための、一種の自己防衛なのかもしれない。今はそう思っている。

40歳になっても同じことを考えているのだろうか。

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