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京都エッセイ(16)またきたよ、京都。

 僕は今、名古屋に住んでいるが、毎月一回短歌会で京都にやって来る。いつもは仕事終わりに新幹線で行って帰るのだが、今回は休みが取れ、時間があったのでゆっくり京都で浸ることにした。

 一度京都に住んだことがある人は、京都を離れると、京都が恋しくて仕方がなくなり、定期的に帰りたくなるとよく言われていたが、自分もその一員だった。

 夜行バスに揺られ、京都駅に降り立つ。朝4時だったので、どこも空いていない、誰もいない京都駅は新鮮だった。京都の早朝は美しい。どことなく薄い水色の空気に当てられて、ビルの間からさす光が眩しい。まるでマスターソードが刺さってる場所みたいになっているところに、カップルが身を寄せ合ってうとうとしている。この二人がどうしてここにいるのかは分からないが、あぁ京都だな、となぜか思った。

 5:20くらいまで烏丸線のシャッターが開くのを待って乗り込む。兄の家に荷物を置きに行くために宝ヶ池まで乗った。京都駅同様、人はまばらで、誰もしゃべらない。広い電車内では鞄を席に置いたり足を置いたり、組んだりと皆自由に座っていた。いつもは観光客が来るからか厳かで丁寧にしているだけなのか、そんなくだけた表情を見せる電車内の風景は新鮮だった。

 国際会館から兄の家まで歩く。水色の空気感こそなくなったものの、午前中の柔らかい光の中、まだ空いていない店たちを眺めながら歩く。ここで過ごしたのはたった数ヶ月なのに、もう懐かしい。花や木々のひとつひとつが挨拶をくれるように風で揺れている。そんなどこでもある風景なのに、京都だな、と思うのは、やはり自分の精神的な故郷は京都だと思っているからだろうか。

 朝からやってるかわりか24時間営業ではない地元の人が運営しているコンビニで、手作りのお弁当を食べた。おばちゃんの手作りはやはり美味しい。コンビニ弁当にはない、ぬくもりがある。食べるだけで、陽の光の中でぬくまっているような感覚になれた。

 次に向かったのは大学時代にバイトでお世話になりまくった書店。

 名古屋で大きな本屋さんで働くようになってから見る店内は、バイトで働いていた頃より違って見えた。

 例えば品揃えの配置。名古屋だと大々的に置かれているものが、こちらではそうではなかったりする。当たり前ではあるのだが、その違いをうれしく思う。

 特に文芸書の新刊コーナーはこちらのほうが好みだった。売れるかどうか分からない、けども興味を惹かれるタイトルや表紙の文芸の単行本が面や平で陳列されているのは、ハードカバー好きとしてとてもうれしいし、海外の作家の作品で少し前のものも置いてくれていたりする。

 これは棚の入れ替えをしていないというわけではなく、きちんと最新刊は押さえてあった。何を残して残さないか、判断した書店員の顔が浮かんでくるような陳列はやはりうれしい。

 忘れていたが、書店に入ってその匂いにも心奪われた。自分が四年間嗅いだはずの併設されたカフェから漂う渋い香りの存在に気づいたのは初めてだが、懐かしい気がした。

 お世話になった方へのご挨拶も終えて、カフェでご飯も食べ、と時間を過ごしているうちに、自分の体が溶けていくような感覚を覚えた。馴染んでいる。動きたくない。と体が、心がゴネ始めてきた。

 お尻から根が生えそうな気持ちを乗り越えて、店内を出て、次は母校の京都芸術大学(ex京都造形芸術大学)に向かった。

 母校は夏休みに入っており、もはや在学生には風物詩にもなりつつあるであろうねぶたの制作をしていた。作業着を着た彼らと普段着の僕。在校生と客という違いをありありと見せつけられたような気がした。

 目があった学生に会釈をすると不思議そうに返す。その遠慮がちな会釈にすら彼彼女らの若さを見せつけられたような気がした。たった数年しか違わないはずなのになと思いながら大学内、エレベーター、学科の部屋と進んでいく。

 ねぶた中の今、すれ違うほとんどの人が作業着で、そうでない人はほとんどスタッフだった。

 何も悪いことをしていないのにジロジロ見られるのはあまり気持ちがいいものではなかった。僕が学生の頃は何もなくても、いやむしろ何もないからこそ暇つぶしで大学に入り浸ったものだったが。これがアフターコロナというやつだろうか。

 夏休みでほとんど教員のいない学科。在学期間がかぶっている生徒はおらず、ただひたすらに本を読んだ。そして、気づいたら寝ていた。

 外で寝るなんて、電車やバスでもない僕が、外で寝落ちするなんて! と思ったがすぐに理由がわかった。昨日1時〜4時までしか夜行バスで寝ていない。それに居心地のいい、学科の空気。心は安心しきってまぶたを落としただろう。

 30分くらい寝てから読書を再開し、読終わってから大学を出た。

 次に向かうは今回の京都来訪のメインイベント、『短歌会』が行われる、ライブハウス。

 バスは苦手だが、ルートがそれしかない。むしろルートがあるだけ素晴らしいと、一度名古屋暮らしを経て京都に来ると思う。名古屋が少ないというわけではない。京都が多いのだ。

 短歌会も終わり、すっかり夜になった烏丸今出川は人が少ない。そこで電車を座って待っていると、これからまた京都を離れるということが、むくむくと起き上がってきてさみしくなってきた。

 京都の思い出の地を巡るはずが、ほとんど行けなかった。次に来る際は、もっといろんなところを見て周りたい。

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