見出し画像

古くからの友達

約束した日、京都は時折青空が覗いているにもかかわらず、ちらちらと雪が舞う不思議な天気でした。待ち合わせ場所は京都のとある博物館。彼女の卒業制作展が開催されているとのこと。

正月早々に、「鼓堂さん元気?私ここのところ用事があって毎週末関西方面に行っているの。来週の土曜日昼間とか空いてる?」とのメールが彼女からありました。年賀状はやりとりしていましたが、メールとなるともう十数年ぶりのことで、しかも彼女がメールをくれたアカウントは、気まぐれにしかチェックしていなかった半休眠アカウントだった上に、彼女にアドレスを教えていたことさえ忘れていて、我ながら良く彼女からだとわかったものだ、と感心したほどです。

彼女とは学生時代から着かず離れずの腐れ縁で、結婚式の時、当時美容師をしていた彼女に妻の髪結いをお願いする等、自然体で息長く、他の人からみるとちょっと風変わりな付き合いをしてきました。後で話を聞くと、実は私がメキシコに駐在していた時代にもメールをくれたそうで、もしそのメールに気付いていたら彼女がメキシコに遊びに来ていたかもしれないのに、と思うと残念でなりません。妻も、「彼女絶対メキシコ合うと思うの。かわいそうだよ。だからメールアカウントを放っぱらかしにしたら友達無くすよ、と、いつもあれ程注意してるんだよ。」と心底同情していました。

そんな彼女は、昔から憧れていたFS先生の染織教室にわざわざ東京から毎週末、この半年間通っていたのです。

そう言えばここに至るまでには長い伏線があります。あれはもう30年以上前、我々が大学4年の頃だったでしょうか。深夜に突然当時住んでいた埼玉の実家に彼女から電話がありました。「ねえ、鼓堂君聞いてよ。今日憧れの先生の展覧会に行ってきたの。そしたらたまたまその先生がいらっしゃったので、勇気を出して近づいて行って、『私昔から先生のファンだったんです。お会いできてとっても幸せです。』と言ったら、先生引いてしまって何もおっしゃらないの。もう私どうしたらいいかわからなくて、先生もそのまま絶句してしまっていて、居たたまれなくて展覧会からそそくさとお暇してしまったの」と。もうその電話をしてきた頃には大分落ち着きを取り戻していたのですが、誰かにショックを伝えたくて悶々としていたのでしょう。私も何と返していいのかわからず、戸惑いながら彼女の話しを聞いていたことが不思議と脳裏に鮮やかに蘇ったのですが、この先生というのが、志村ふくみ先生であった、ということが今回京都で彼女からの話で分かりました。

彼女は一途な人で、FS先生のことは作品展に行ったり、随筆を読んだりとその頃から折に触れてフォローしてきており、先生を通じて面識を得た韓国の舞踏家の先生に、現地に行ってまで直接舞踏指導を受け、つい最近不運にも足を痛めるまではずっと韓国舞踊のレッスンを受けていました。自分がやりたいことに対しては、何事も厭わず、とにかくやってみて、地道に続けるタイプです。

現在は舞台運営の仕事をしているそうなのですが、ワークライフバランスを考える今の世の中ではありえない微笑ましい(?)武勇伝もあります。かつて静岡で働いていた劇場の施設の1つは古墳の上に立っていたらしく、夜になると様々な物音が鳴り出すと職員の間でも噂になっている場所だったらしいのですが、その日も彼女はその小高い山の上の劇場で夜半過ぎまで一人で仕事をしていました。もう2時を回ろうとしているため、鍵を掛けて建物の敷地の外に出ようとすると、小道の脇の茂みから「ブフッ、ブフッ」という声が聞こえたそうなのです。どうやら、イノシシ家族が待機しているようで、もし脇を通ると突進される危険があってどうしよう、と何度も躊躇したそうなのですが、建物の中で一夜を明かすのも恐ろしく、決死の思いでその横を通り過ぎたそうです。何もなかったから良かったのですが、そんな夜遅くまで女性を働かせる劇場も劇場です。そんな大らかな時代だったのかもしれませんが・・・。

という訳で、そんな彼女が半年かけて、自然の素材で染めた優しい糸で丹精込めて織った帯を出展していました。作品を写真で撮った筈だったのですが、何度アルバムを探しても見つからず、ここにお見せできないのが残念です。華やかなピンクの格子柄が上手く正面に出るように工夫したというのですが、半年でそんな器用な技を身に着けられるとは驚きです。人間やると決めたら相当なことが成し遂げられるのだとつくづく感心しました。

彼女はこの後卒業記念パーティに出席してその日の内に東京に戻るというので、ほんの束の間、同じ建物の下にある喫茶店でお茶をしたのですが、彼女は相変わらず自分の気持ちに正直に生きているようでした。あまり辛い物が得意でない筈なのにインドに染織家の人たちとツアーに行って、香辛料の奥深さに目覚めたとか、下足番のインド人の男の子が、見学から戻ってみると、驚くほど大勢の訪問客がいるというのに一足も間違えずに次々と下駄箱から当たり前のように正しい靴を差し出していることに驚き、連れが先に行ってしまっているのに少年に何故間違えないのか改めてインタビューに戻った、とか。

そう言えば、ガンジス川のほとりにある終末の家の話もしていました。その家には、死期を迎える人がいて、なおかつその家族が死に至るまでその重病人のケアができることを条件に入居することが可能なのだそうです。ただし、7日の間に亡くならないと再び病院に戻されてしまいます。もし幸運にも(?)7日間の内に亡くなることができれば(?)、遺灰をガンジス川に流してくれるとのこと、インド人の一部(多く?)の人にはこの上ない幸せなのだそうです。その家に入居している家族が静かに重病人と最期の時を過ごす様子を、淡々としていながら、しかし何か厳かな雰囲気を慈しむように語る姿が、彼女らしいなと感じました。

そんなこんなで、我々夫婦が三十三間堂のライトアップを見に建物を後にするのを彼女は見届けてくれたのですが、最近病気がちのお母上を気遣って遠出を避けたり仕事量を調整したりしてはいるものの、自分を犠牲にすることなく、お母上のことを自然体でケアしていくのだろうな、と彼女のしなやかな強さを久しぶりにしみじみ感じた一日となりました。

三十三間堂の風神様


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?