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大阪

昔から大阪は興味惹かれる場所でした。もう古すぎて知らない人の方が多いと思いますが、「大阪の女(ひと)」というフレーズが物心ついた頃から気になっておりました。色々な妄想が広がり、大学生だった頃は結婚するなら関西の人がいいな、とさえ密かに思い始めていたように思います。これはもしかすると母が小・中・高校と尼崎に住んでいて、時折大阪での幼少期の暮らしについて語っていた影響があるからかもしれません。


月と大阪のイルミネーション

入社したのがたまたま関西発祥の会社で、しかも企業選びの段階で衣食住にかかわる仕事をしたいと漠然と考えていた私は、入社した時からずっと、いつかは大阪で繊維関係の仕事に携わりたいと思っていました。しかし、そんな憧れの地でようやく勤務できるようになったのは、入社から29年目、メキシコでの6年弱の混迷を極めた駐在生活の直後でした。恐らく、メキシコから直接本社のある東京に戻っていたら、私は干からびて、生きている喜びや悲しみを感じることができない人間になっていたかも知れません。そのような意味で大阪は今や私を救ってくれた街と言っても過言ではないと思っています。

では、大阪は実際にどのように私を救ってくれたのか。このnoteでも何度も書いているので、またその話か、と思うかもしれませんが、大阪赴任にあたっての抱負は、とにかく仕事以外の生活も大いに充実させたい、というものでした。これは大阪という土地柄に、そのようなことを実現させてくれる可能性を大いに感じたからのような気がします。そしてできれば、夫婦それぞれがこの大阪の地に根を張って、沢山の養分をもらい、そして毎日を十分に生きることができるようになり、そして自分たちも何らかの実をこの地にもたらすことができれば、そう思いました。

ドラムを始めたり、ゴルフのマンツーマンの個人レッスンを受けるようになったり、何より、こうして書き始めるきっかけを与えてくれたのはこの大阪です。まさに、期待通りのものを惜しみなく我々に与え続けてくれました。

人々は総じてオープンで、求めれば何でも、時にはお節介ぐらいに人の意に沿おうとしてくれます。勿論、彼らは一方で、強かに、そして結果的にみるといつのまにか自分の応分の分け前もちゃっかり確保しているのですが、人と人との対面のやり取りの中で、落としどころもわきまえながら両者ウィンウィンになるように行動をするというのが大阪で出会った大半の人から受けた印象です。垣根がなくオープンで、良くも悪くも装飾がない。剥き出しのコミュニケーションでお互いが居心地の良い着地点を見出す、これが大阪人のやり取りの真骨頂ではないのか、と私はまだ大阪在住2年の若輩者ですが、勝手に思いました。

突然何故、このような総括めいたことを書いているのかというと、それは、大阪を離れねばならなくなってしまったからです。本当に悲しい。まだまだ、やりたかったことの半分もできていません。家の近所ですらようやく馴染みの店ができつつあるといった状況で、北摂地域については何とか地名を聞いてどの辺だと分かり始めたばかりでした。ミナミに至っては観光客に毛が生えたような段階で、これから一人前の大阪人(?)になるために、中沢新一の大阪アースダイバーを片手に本格的に色々な街に潜入して行こうと考えていた矢先でした。


織田作之助の描いた世界が今でも残る法善寺界隈

時々用事ができて難波や天王寺に行くと、いつも地から湧き上がってくるような、底知れぬエネルギーを感じます。日本各地、今では世界各地から人々を吸い寄せ、それだけでは飽き足らず、かつてこの地で生きていた人々もここには集まって来ているような気がします。大阪は、良いものも悪いものも、上品なものも下品なものも、美しいものも醜いものも、ある筈の無いものまで全て一旦は受け入れる大きな度量があるのだと思います。勿論、その度量は、時に排外的な波によって萎むように見えることはあるのですが、この街のどこかではそれらを吸収する緩さ、曖昧さ、懐の深さが今でも残っていると私は確信しています。この度量は、日本でも、いや世界でも稀にみるものであり、誇って良いのではないか、この特性を生かして、是非もっともっと人々を惹きつけて欲しいと切に希望します。現在東京一極集中がますます進んでいるように思われますが、そうした資本の論理による磁力に対抗して、人の情けを核として日本のもう一つの極となって欲しい。私は東京からそれを見守り、できれば、書くことによってその魅力を伝えて、これまでの恩返しができればと思っています。


水も豊かな大阪の街


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