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『稲盛和夫一日一言』 4月17日

 こんにちは!『稲盛和夫一日一言』 4月17日(水)は、「執着からの解脱」です。

ポイント:人間が一番強くなるのは、執着から解脱したとき。「他に善かれかし」と考え、我欲が引っ込んだところから、心は高まっていく。

 2001年発刊の『稲盛和夫の哲学』(稲盛和夫著 PHP研究所)「5章 欲望について」の中で、人生の目標、目的について、稲盛名誉会長は次のように述べられています。

 「人は罪の子である」といわれます。そういう考え方と、「人間はもっとも価値のある存在である」という考え方とは相容れないように感じるかもしれませんが、決してそうではありません。

 仏教では、罪とは煩悩(ぼんのう)が原因であり、それには六大煩悩があるといわれています。それは「貪(とん)」「瞋(じん)」「癡(ち)」「慢(まん)」「疑(ぎ)」「見(けん)」というものです。

 「貪」とは何でもわがものにしようとする貪欲(どんよく)な心、「瞋」とは自分勝手な振る舞いで怒るような浅ましい心、「癡」とは思い通りにならないことに対して愚痴をもらし、不平不満を鳴らすような仏の智慧を知らない心、「漫」とは傲岸不遜(ごうがんふそん)な心、「疑」とは真理を疑う心、「見」とは物事を悪く見てしまう心のことで、この中の特に「貪」「瞋」「癡」は人間のもつ煩悩の根源的なものとして「三毒」といわれています。

 もともと煩悩とは、肉体をもっている人間が生きていくために、創造主が備えてくださった知恵なのですが、そこに、創造主から与えられた「自由」が加わることによって「悪」がつくりだされることがあります。

 自由だからといって、それを百パーセント振り回し、「何をしてもいいじゃないか」と、煩悩のおもむくままに欲望に任せて自由に行動してしまうと、悪がつくりだされるわけです。

 そこでお釈迦様は、自由を適宜抑えて悪をなさないようにする「持戒(じかい)」、また他人を助けてあげる「布施(ふせ)」に代表される「六波羅蜜(ろくはらみつ)」という修行の道を示されました。

 「持戒」で自由を抑えて悪をつくらないようにし、「布施」で人様に思いやりをかけることで、いわゆる「菩薩(ぼさつ)」になることができ、逆に、自然のままに、煩悩に任せて自由に行動していると「悪魔」になってしまう。
 つまり、素晴らしい仏にもなり、極悪非道な悪魔にもなり得る、人間はそうした両面をもっているわけです。

 現世とは、こうした人間が心を浄化するための修行の場であり、修行を通して人間性を高め、人格をつくっていく。つまり、人間性を高めてこの世を終わることが、人生の究極の目的となります。
 お釈迦様は悟りまで行けといわれるのですが、しかしながら悟りの境地は無限大で、一気に悟りまで行ける人は何百万人に一人もいないでしょう。

 だからといって、「どうせ悟りが開けないなら、修行などしてもしなくても同じではないか」と思ったら大きな間違いです。私なりの解釈ですが、お釈迦様は人間の心が少しでもきれいになることを望んでおられるのだと思います。したがって、死ぬまでの間に、少しずつでも心が浄化されきれいになっていくことが大切なのではないでしょうか。

 もっと具体的にいえば、自分が死んだとき、「あの人はいい人だった」「惜しい人を無くした」とみんなから慕われるような人間になること、それを人生の目標、目的に据えるべきではないかと思っています。(要約)

 2011年発刊の『京セラフィロソフィを語るⅡ』(稲盛和夫著 京セラ経営研究部編/非売品)の中で、「利他の心でよいことを実行すれば、運命はよい方向に変わる」として、名誉会長は次のように説かれています。

 人間にはそれぞれ運命というものが備わっています。皆、それぞれの運命に導かれて己の人生を歩んでいきますが、その中でいろいろなことに遭遇します。人生とはまさに波瀾万丈で、健康かと思ったら病に侵されたり、仕事がうまくいっているかと思ったらつまずいたりします。

 そうしたとき、善きことを思い、善きことを実行すれば、運命というものはよい方向へと変わっていきます。つまり、人間は生まれたときに持っていた運命のままに生きていく必要はないのです。

 人生を幸せに生きていくためには、なるべく善きことを思い、善きことを実行することが絶対条件であると、私は思っています。(要約)

 「あの人はろくな死に方はしないよ」とか、「こんなことばかりやっていたら、いい死に方はできないよ」などといわれることがあります。
 また、どうせ死んでしまったら意識がなくなって何も感じることなどないのだから、死んだ先のことなど考えてもしようがない、といった見方もあるでしょう。
 また、「あの人はいい人だった」とみんなから慕われて死にたいと思うこと自体、ひょっとすると、究極の我欲であり人生最後の執着なのかもしれません。

 しかしながら、私自身は残りの人生を少しずつでも己の心を浄化しながら生きていければと願っています。『人生イコール修行』


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