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遊びの堕落について

こんにちは、今日も良い一日になりますことを願っております。

遊びの堕落について述べたいと存じます。

遊びとは人間が本来持っている本能的欲求を満たしてくれるもので、日常の生活から隔離された『気晴らし』の為の行動であるべきであります。趣味などは日常の活動の中で疲れた精神などを癒すため、経済的な見返りを求めず非日常的な活動である必要があります。
しかしながら、遊びの世界と日常生活の境界線が曖昧になり、遊びが日常生活の中に取り込まれることで遊びの堕落が始まります。つまり日常生活の中での遊びが生活の糧になることで遊びの特性が失われ、妄執することで、社会生活の中の気の休まらない経済活動の一部、いわゆる労働となってしまうからです。

『遊びと人間』ロジェ・カイヨワ著/多田道太郎・塚崎幹夫訳 講談社学芸文庫 第39刷 2019 (89-107頁)によれば、

遊びは自由な、隔離された、未確定な、非生産的な、規則(ルール)のある、虚構の活動になります。もし隔離が維持されず、規則(ルール)も意識されなければ、遊びの形式も自由も確実に存続できなくなります。
そのような状況では他の遊び、他の種類の遊びを好む、抑えがたい心的態度(衝動)が生まれます。そこには、規則(ルール)の競争において、自分の能力だけによって勝利を得ようとする野心(アゴン)、運命の判決を不安と受け身の姿勢で待つために、意思を捨て去ること(アレア)、他人の人格を装う好み(ミミクリ)、および眩暈の追求(イリンクス)による遊びの腐敗が起こります。

本能の支配が絶対的なものとなり、隔離され、保護され、いわば中和されていた遊びの活動によってなんとかなだめられていた性癖が、日常生活の中に現れ、拡がり、生活をなるたけ性癖のいうがままに従わせようとする。かつては楽しみでしていたことが、いまは固定観念〔妄執〕となる。逃避であったものが義務になる、気晴らしであったものが熱情にとなり、執念となり、不安のもととなります。遊びの原理・原則が蝕まれてしまったのである。

遊びの特性であるアゴン(競争)・アレア(運)・ミミクリ(模擬)・イリンクス(眩暈)の代表的文化的形式は、それぞれスポーツ・富くじ/カジノ/競馬・演劇/映画・登山/サーカス/遊園地になりますが、社会生活に組み込まれている制度的形態では、企業間競争/試験・株式投機・礼儀作法/儀式に携わる職業・眩暈の統御を見せる職業になります。遊びが堕落すると暴力/権力意志・迷信/占星術・狂気/二重人格・アルコール中毒・麻薬依存につながります。

遊びの原理・原則は、まさしく強力な本能(競争、幸福の追求、模倣、眩暈)に応じたものです。あらゆる本能と同様、これらの基本的衝動は、せいぜい忌まわしい結末にしかなりません。遊びは本能を訓練して、それを強制的に制度化することができます。遊びはこれらの本能の形式的かつ限定的な満足を与えるだけでなく、本能を教育し、豊かにし、その毒性を無力化させることができることで、文化の諸様式の豊富化、定着化に貢献しております。