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「マス」と「コア」どちらがesports向きのメディアなのか

「マスメディア」と作家性

大衆へ向けたメディアの代表格「テレビ」。この業界に10年以上も居座り、翻弄されていた自分が、なぜesports事業に手を付けたのか。
実は、自社メディアの確立が目的で、自分基準のモノづくりを目指してのことなのである。

そもそも私がテレビマンを辞めた理由は、マスメディア発信での限界を感じたから。
「テレビ離れ」という言葉は、今や手垢のついた表現になりつつあるほど、テレビは人気がなくなった。
いまだに7割の国民はテレビから情報を得ているとのデータもあるというが、一昔前のテレビ全盛期のような勢いは影を潜めている。

現にテレビを付ければ、同じ型にはまった、金太郎飴のようなネタがズラズラと並ぶ。
年末のNHKスペシャルが、唯一私の心を癒してくれた骨太のドキュメンタリーであったくらいで、作品を見終わった後に残る「自我の回帰」的な思考の時間に浸れる作品は、最近ほとんどお目にかかれなくなった。

私のカメラマンの師匠が30代、40代のころは、テレビマンたちも元気だった。
高い制作費が付き、万全の体制のもと、キャラクターの尖った作り手たちがしのぎを削りながら、秀作をバンバン生み出していた。
今、60代、現役を引退しているかつての勇姿たちから全盛期の現場の話を聞く機会が多かった。
まだ「コンプライアンス」に縛られずに、自由に発信ができていた時代の話。
「佐々木昭一郎というNHKの鬼才がいてね。彼とタッグを組んでいた葛城哲郎というカメラマンの撮る女優が、とにかく色っぽかった。」
彼らが憧れの存在として多く口にしていた鬼才、佐々木昭一郎氏は、NHKの伝説的な作品「夢の島少女」のディレクターである。「夢の島少女」は、ドキュメンタリードラマという、ドラマでもない、ドキュメンタリーでもない、まったく新しい「偶発的」手法で撮られた衝撃作だったらしい。
佐々木氏の作品を支えるカメラマン、葛城哲郎氏も、演者と不思議と心を通わせ、彼にしか見せない艶やかな表情を見事にフィルムに収める名人だったという。

こうした、テレビが「作家性」を許していた時代は、時を経るにつれて徐々に薄れていく。
演出か、やらせか。
取材対象者への過度な接近など。
さまざまな取材手法が、コンプライアンス上問題視されはじめ、制作者独自の世界観の確立が困難になり始めたのだ。

「NHKの奴らがなぜ凄いかというと、理屈で人を泣かせられるからなんだ。」
「ペタ」と呼ばれるポストイットで作る全体構成図。各項目から、ワンシーンワンシーンに至るまで、徹底的に「意味」を持たせ、理屈の成立にこだわる。
気が狂いそうになりながら経験した「理屈で泣かす」手法は、今や私に麻薬的な快楽を与えてくれる、モノづくりのモチベーションそのものである。

脳みその裏っ側をフルに使う思考。
あの「ゾーンに落ちていく感覚」は、まさに病みつきになるものがある。

あの経験が、またしたい。
自己満足の何物でもないが、「己の世界観の確立」こそ、モノづくりの神髄だと思えてならず、この呪いにも似た「ゾーンに落ちる感覚」を、いまだに追い求めている。
これが、全然関連性を持たないesports事業への参入の理由。我ながらおかしいとは思う。(笑)

ベトナムでの取材時。この頃、ホーチミンでは経済成長著しく、そこここで工事ばかりしていて、新しいビルがどんどんできていた。
ホーチミンの夜景

「コアメディア」で作家性は生まれるのか?

例えば、YouTube。
このメディア媒体において、「夢の島少女」のような伝説的作品は生まれてくるのだろうか?
「インターネットメディアはコア層をターゲットにすべき」という自論のもと、さまざまなチャンネルを見続けた。
しかし、残念なことにインターネットという界隈に置いて、「作家性」を理解できるフェーズにはまだたどり着けていない現実を突きつけられた。

例えば、Twitter。
こちらはテレビよりももっと度の超えた「金太郎飴」化したフォーマットが確立されていた。

そもそも作家性の強い作品は、現代社会において求められていないのではないか?
そこまで日本人は、思慮が浅くなってしまったのか…

メディアにこだわるのは諦めるか…
そんな時、私の元同僚がネットチャンネルで独自の放送局を開局していることを知った。

某テレビ局の朝の情報番組で一緒にディレクターをやっていた佐治洋氏。
特定の政治団体からの資金受領が「公平な報道という報道倫理に反するのではないか」と抗議を受けた。
しかし、重い重い十字架を背負い、佐治氏は再びカメラを持ち、取材して発信していくことを選んだ。
その勇気に、頭が下がった。

同じ番組を担当していた頃のこと、彼は「袴田事件」を個人的に追っていた。袴田事件についての分厚い本を常に持ち歩き、本職の傍ら、関係者などのアプローチや裁判の聴講のチャンスを伺っていた。
とにかくお堅い事件にこだわる人だな。当然、袴田事件のようなグレーな部分の多いネタは、朝の視聴者が忙しい時間帯には適さないとされる。
「こだわりの強い人」。そんな印象だった。

そのこだわりを形にした。
私は一筋の光を見た気がした。
そこに「作家性」があるかどうかはわからない。
ただ、作り手の「信念」そのもののチャンネルに違いはなかった。
テレビでは取り上げない、しかし、薄々気づいている「暗黙の違和感」について切り込んでいく。
これは、「コアメディア」だからこそできる領域なのではないか。

「コア」なターゲティングで創る世界観

esports業界でいうならば、そのターゲット層は非常に若いZ世代、α世代と呼ばれる若者たちであることが多い。
特に、私が運営している「モバイルゲーム」においては、10代から20代前半が分厚い層である。

彼らは「作家性」を求めないのか?
一見、金太郎飴のコンテンツに「いいね」ばかり押しているように見えるが、ただ、じっくり向き合って話を聞いていくと、本質的な内容を突いたコンテンツ、「言葉」「パフォーマンス」を求めていることに気づく。
表面上でしかものを言っていないか、そうでないものなのか。
実はきちんと見極めていたのだ。

「若いからこそ」本質をえぐるコンテンツを提供しなければ、絶対に刺さらない。
彼らは我々中年が思っているほど甘くはなく、非常に賢い。
さらりと神髄を見抜き、言い当ててしまう。
そんな若者がゴロゴロいるのだ。

彼らに刺さる世界観とは?
これこそ、NHKの巨匠たちが表現してきた「理屈で泣かす」物語が、日の目を見るのかもしれない。
すべてのシーンに意味を持たせる。
すべてのコメントに、思いを込める。
手探りながらも、少しずつ見えてきた「作家性」に、私はいつになったら触れることができるのか?
最近、毎日わくわくしているのは、そんなまだ見ぬ未来が楽しみで仕方がないからなのかもしれない。

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