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240422 文化を享受したあとは

 なぜか生まれてきてからもう27年経つが、この四半世紀において何か自分にひとつ一貫したものがあるとすればそれは「サブカルチャーが大好き」ということ、その一点のみになると思う。

 会社組織に入って半年と少しが過ぎた。大変に勉強になった半年間であったが、やはり重く受け止めなければならない事実として「みんなそんなにサブカルチャーが好きではない」ことがわかった。というよりは、「みんなメインカルチャーとされるものを享受し楽しんでいる」というのだろうか。ジブリ、ハリーポッター、コナンの映画、韓国アイドル、鬼滅の刃、進撃の巨人….。「みんなが知ってるもの」、私がついていけなかったもの、枚挙にいとまがない。

 好きな音楽は?「一番好きなのは山下達郎と浜田省吾、そんでビートルズあたりの音楽です」。へぇ〜…。 一般だったら「韓国アイドルを推してるんです〜」「へぇ〜!見せて見せて!」とか「ジブリが好きなんです」「あ〜!〇〇とか見た?アレいいよね〜〜」とかなるところを、自分の場合(だいぶメインに寄せてるつもりでも)全くの広がりもないまま「変な人」というカテゴリ付けが成されて会話終了。こういう扱いが益々私のメインとされるものへの抵抗を強くさせる。結局世間から「エンタメの話ができない奴」という着地点に落ち着くことになるのがいつものパターンなのである。俺は口をつぐむ…。

 世間が鬼滅にハマっている間、その時間を別のものを見るのに使っていた。みんなと同じ足取りを踏まなかったことに対する「罰」なのか、これは?

 サブカル好きにとって世間は、冷たい。変な人、異常者、コミュニティ外の人に世間はあまりにも冷たい。最悪に偉そうなことをボヤくが、カルチャーに多様性はほとんど認められていないよう感じる。中学生の頃みんながエグザイルとAKBと嵐が好きだった頃から何も変わっていない。人はコミュニケーションに共通性を求める生き物。その生物としての本能に私は異物と判断されているのだ。

 スージー鈴木氏の「サブカルサラリーマンになろう」を読了した。共感と目からウロコの詰合せになっていて感動した。氏はサブカルに相反する概念を「マッチョ」であると定義する。

『直接的には「筋肉質」という意味ですが、転じて、日本の企業文化、企業社会を牛耳る、男性的で圧迫的で、紺のスーツ上下に身を包み、いつも難しい顔をして、眉間にシワ寄せて、偉そうにふんぞり返っている感じ……を本書では「マッチョ」と名付けたいと思うのです。
このマッチョに対して「サブカル」は一番遠くにある言葉に聞こえる。遠すぎて、マッチョに対するいちばんの対義語に聞こえる。だからマッチョな企業文化の対極にいる会社員をサブサラと呼びたいと思うのです。』

スージー鈴木「サブカルサラリーマンになろう 人生をよくばる108の方法」講談社, 2024, 12-13p.

 つらい人生を歩んでいるが、俺の人生は全てにおいて「マッチョ」との戦いなのかもしれねえ。戦い?いや、無視されてるだけなんだろうけど…。

 しかしとにかく理由はなくとも授かったこの命、全うするためにメインに迎合するだけでなく「サブカルをあきらめない」姿勢で今後も望みたい。徳島に存在する数少ないサブカル摂取センター、会社から車で5分の「AVスポットフジ」。徳島県唯一と言っても過言ではない中古レコード屋である。あそこ超いいんですよ〜〜と会社で言ったところで何の会話も膨らまない。サブカルサラリーマンには常に孤独の影がしのぶのだ。

 愛でる文化が周囲と違う。私はさながら地球という星に不時着してしまったどこかの宇宙人のよう。「ピポパ、ピポパポパ…」「へ、へぇ、そうなんだ…」。大げさな話ではなく、マジなのである。マジ。

 みんな文化を愛している。私も愛している。ただ愛する文化が少し違うだけ。迫害されているサイドから言うのもなんなのだが…「いいじゃないか(by 遠藤周作)」。いいじゃん別に。なんかみんな、ひどいよな。

そんで文化どうこうが理由ではないけど、今の会社に最初に聞いていた仕事と全く違う仕事内容を要求されており、今のトップの下でいるとこにもう限界が来ていると考えたためそこを辞めることにした。大阪で再就職先を探すつもり。尾崎豊の話で盛り上がった女性部長Hさんには本当に感謝しています。

 音楽を聞いたり映画を見たり本を読んだり、色々していた割に働いているとそれから何もしないまま時間だけ経っていた。文化を享受したあとはこうしてアウトプットしていきたい。なので今後週イチで日曜夜などにこうして駄文に落とし込んでみたいと思う。なのでそこんとこ、ヨロシク。

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