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おれってなんでこんなに野球にハマってるんだっけ

昨年のはじめに下の記事を書いた。

2020年の抱負をざっくりまとめた記事だ。今読み返すとなかなかに痛い内容である。

その中の一つにこんな抱負がある。

野球をとことん好きになってハマる

当時何を思ってコレを書いたのか鮮明には思い出せないが、熱中できるコンテンツとして野球を選び、それにどっぷり浸かって何かを得ようとしていたのだと思う。

実際、物心ついてから野球はずっと近くにあって、野球が自分の側から消えたことは今までの人生で1度もない。そんなコンテンツだからこそ、もっと真剣にのめり込めば何かを得られると思ったんだろう。

だから昨年はひたすら野球を見ていたし、野球に関するnoteをひたすら書いた。プレーヤーとしても毎日筋トレをし、毎週末には野球をやり、どっぷりと浸かった。

おかげでTwitterのフォロワーは2020年末には3800人とし、年が明けて2021年2月には4000人を超えた。現実世界ではみるみる筋肉が付き、会社では完全に筋肉キャラとして定着。業務外の大抵の誘いは「筋トレがあるので」で回避できるようになり、体質的に古い会社ではあるがその会話でウケも取れてなんとなく社内での立ち回りが楽になった。色々要因はあれど、野球に浸かった結果の一つと言えなくもない。

ただ、あるものがぼんやりと見えてくるようになった。


それは私にとって野球は何かの息抜き程度でしかなく、自分の側にはあっても中心には絶対に来ないことである。


たしかに昨年は、熱心に野球を見て、真剣に野球をやって楽しかったし色々な収穫があったことは間違いないが、それによって他の何かに使う時間が脅かされることに焦りを感じるようになってしまっていた。

野球が好きで、よく野球を見ていて、記事の寄稿なんかをやっている人を見ると羨ましいと思うし、羨ましいと思ったその瞬間は追いつけるように頑張ってみようかとも思う。

けれども私にとって野球は、今の仕事や先々のキャリア、大切な家族や友人、そしてこれから家族となる婚約者とのかけがえのない時間があっての野球であり、野球そのものがメインになることは絶対にないのだ。だがそれでも野球を捨てることはできない。


何が私をそこまで野球に引き付けるのだろうか。


私はプレーヤーとして大した野球人生は歩めていない。中学3年まで8年ほど野球はやっていたが、声と地肩の強さだけでレギュラーにいたようなもの(しかも送球難でセカンド)で、バッティングに関しては体の強い素人の方がマシなレベル。チームも県大会の1つ前の大会1回戦負けと大したことはなかった。練習もそれなりにしかやっていなかったが、それでも大会の時の興奮は忘れられないものがあったし、最後の大会で負けた時も悔しくて泣いた。

観戦者としてはプレーヤーの倍くらい時間が経っている。物心ついた時から実家のテレビには巨人戦。野球をやり始めてからは中ば強制的に野球を見ることになり、嫌々ながらも見続けた。そしてプレーヤーとして野球を1度やめてからも観戦はやめなかった。むしろやめてからの方が野球をよく見るようになった。

一度スパッとプレーヤーをやめることができた割に、なぜか野球から離れることはできない。社会人になった今、仕事や婚約者との時間に心血を注ぐ一方で、どうしても野球が切り離せない。切り離した方が仕事に使える時間は増えるのに。


結局のところ私は野球に何を求めているのだろうか


プレーヤーを辞めたのは野球が嫌だからやめたわけではない。それまで疎かにしていたことのツケが回って単純に上のレベルでやるだけのハードもソフトも自分に備わっていなかっただけのことだ。

プレーヤーをやめてからもプロ野球選手への憧れはなくなることはなく、憧れの亡霊を追いかけるように観戦により浸かっていったのだろう。それは今でも変わっていない。球場へ足を運べばアドレナリンが湧き出して、みぞおちの奥が暖かくなるような感覚になる。

それだけでは物足りず、社会人になってからはプレーヤーとして改めて野球をやり直した。

きっと私は熱狂の追体験野球に求めている。高校進学後もプレーヤーとして生きていたらあったかもしれない道。そこにある熱狂。その最上級としてプロ野球やMLBの観戦があるのだろう。

決して人生のメインになるものではない。それで金が稼げる気はしないし、金にならずとも365日24時間心血を注げる程でもない。

だが、たしかにそこに私は熱狂の追体験を求めている。プレーヤとして個人的な活躍を修める熱狂、チームとして勝利を求める先の熱狂、ファンとして求める熱狂。


おそらく私は何かに熱狂し続けたい。常温のままの人生では嫌だ、死んでしまうと本能が言っている。熱狂を求め続けろと本能が鳴らす警告が私を野球から離さないのだ。

野球にこれだけ執着している現状、野球以上に熱狂を感じられるものが私にはないことを意味しているのかもしれない。十分仕事や大切な人に心血を注いでいるつもりだったが、まだまだ足りないらしい。

熱狂し熱くあり続けたい。


意味は変わるかもしれないが

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心を燃やせ


心が燃え続ける人生でありたい


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