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人の夢に審判をくださない

誰かが、「夢は絵描きになることだ」と言う。

それに対して、ある人は言う。
「いいね。君だったらきっとできるよ!」

またある人は言う。
「無理無理。そんなの一部の才能ある人だけができるんだよ」

私はずっと、前者でありたいと思ってきたし、それが正しいと信じてきた。
あれ、けどそれって、本当に正しいんだろうか?

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人には、誰しも夢がある。いやいや僕には夢なんて無い、という人に向けては、「誰しも夢がある(もしくはあった)」とでも言おうか。もちろん、夢がある、と言っても、その大小は様々。

世界No.1のダンサーになるんだ!日本屈指のコメディアンになる!細胞の研究で人類を救いたい!といった大きな夢から、平穏に暮らしたい、といった小さな夢まで。

あれ、夢の大小って、なんだ???

ちょっと話が脇にそれるが、そもそも夢には大小があるのか?

まあ当たり前だけど、そんなものはない。人によって見る角度や視点が違うし、いまの状況によっても違うから。

いま私が、毎日食べるものに困りその日暮らしをしているとする。すると、毎日好きなものをお腹いっぱい食べて暮らしたいというのは、小さな夢ではなく大きな夢だろう。しかし幸い、いまの私にとってはそれは大きな夢ではない。

同じように、戦火から逃れているなら、生き延びることが大きな夢になるだろう。これも幸い、いまの私にとっては大きな夢ではない。それは明日生き延びているかどうか?について疑問を持っていないから。

そう、そもそも夢の大小なんてものはない。あるのは、その夢を外から見た人の意見と評価だけ。人がどう言おうと、自分の夢は圧倒的に尊く、不可侵のものであると思っていい。そのために必要なのは、人間としての強さではなく、自分の夢を誰よりも愛し敬う心だ。

というと綺麗事に聞こえるかもしれない。が、本当にそうなのだ。

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夢の種類とその大小は、個人の思想 × 生まれた時代背景 × まわりの環境(や意見)で決まるのだ、と思う。もちろん、まわりの環境や意見にどれだけ左右されるかは性格によって変わるだろうけど。

この3つの要素のうち1つを担うのだとしたら、人の夢について気軽なことは言えない。人の夢を審判する権利はないのだから。たとえそれが、親子の関係であったとしても。たとえそれが、夫婦の関係であったとしても。

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初めの話に戻そう。人の夢に対する反応の話だが、実はどちらも審判を下していることに変わりはないのだ。

「いいね。君だったらきっとできるよ!」→ポジティブな審判
「無理無理。そんなの一部の才能ある人だけができるんだよ」→ネガティブな審判

その審判によって、その人のその夢に向き合うスタンスがどう変化していくのか。そこまでは知ったこっちゃない。とも言えるし、もちろん、そこからはその本人の責任範囲だろう。

そう思うと、ポジティブな審判であったとしてもそれは如何なものか…と終わりのない思考に陥る。

けどそれでも私は、夢を語る友人、夢を語る妻、夢を語る(将来の)子供たちにはこう声をかけてあげたい。

「いいね。君だったらきっとできるよ!」

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