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人間関係もサステナブルに。ドイツ生活から学んだ”タグ”から離れることで生まれるつながり



大学生活の4分の1は、ドイツで暮らしていた。

2年の夏休みに一ヶ月と、3年の秋からの1年間。

ドイツでの暮らしは、僕にとっては心地が良かった。胸を涼しい風が抜けていくような、呼吸の度に季節が身体を流れていくような。

はじめての海外だからと興奮していたからではない。

留学という夢に歓喜していたからでもない。(確かに興奮も歓喜もしていたが)

心地よかったのは、”何か”から解放されたような気分がしたからだ。

ドイツで暮らすまでの約20年間。当たり前のように日本で過ごす中で、どこか人の目を気にしていた。自分を、人から期待される役割の枠に当てはめていた。だからなのか、中学生の頃から、外の世界へ、外の世界へ、と渇望していた。

はじめてドイツに渡ったとき、僕はこれまでの居心地の悪さの正体を知る。

それは、人を”ラベル”で判断するということだった。”タグ”と言ったほうがよいだろうか。

ブログやインスタグラムでも、数えきれないほどの”タグ”がある。ただ、タグ自体に意味はあっても、タグは投稿した記事そのものではないのだ。

人もまったく同じで。出身地や出身大学、それに身につけている服装のテイストやブランド、髪型、どんな人と付き合っていて、どんな車に乗っているのか。それらはすべてその人の”タグ”にすぎない。

その人のタグに目を向けて接っするとき、本当の意味で心はつながっていないのだ。

僕は、通っていた日本の大学(関西のとあるマンモス大学)で「いつも集まる特定のグループ」を持っていなかった(図書館で長く濃い時間を過ごしていた)。ふと周りを見渡してみると気づく。一つのグループには似たような服装をしている人が多いことに。

同じようなテイストの服の人が集まったのか。それとも、集まった人が同じような服になっていったのか。共通のタグは、仲間意識や所属の安心感にもつながるのだということを知った。

けど、僕は”タグ”でつながりたいとは思わなかった。その人そのものとのつながりを求めていた。

ドイツではどうだったか。

日本のような「グループ」も、あるにはある。ただ、タグで人を判断せずに、もっとその人自身を見ているような気がした。通っていたドイツの大学には日本語学科(Japanologie)があったが、そこの学生はヘヴィーメタル大好きな焼そばのような髪型の人や、アジア系の学生、ゲイのドイツ人など、様々だった。

彼らが、当たり前のように一緒に会話を楽しんでいる。そのつながりは”タグ”ではなく、明らかに人対人だった。無理して作ったハリボテの多様性ではなく、お互いの存在を認めることで自然と生まれる多様性

その様子を見て、心がちょっと軽くなったことを覚えている。

”タグ”を通じて人と付き合うことの弊害は、”タグ”が剥がれたときに付き合いの接点がなくなるということ。

持続可能な関係性は、タグではなく、その人そのものと付き合うことで生まれる。

人間関係もサステナブルに。


(写真はドイツで1年間を過ごしたGoettingen)





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