【連載小説】 「私の味(サボール・ア・ミ)」 (5)私の究極の失敗
1992年7月。
「森くんのタコス巡礼。今年もまたその季節となりましたか」
佐藤課長がシンイチの休暇申請にハンコを押しながら言う。
「まあ、君ももうアラサーなんだから、タコスばっかり追っかけてないで、嫁さん探さないとな。親御さんももう60代後半だろ。それともあっちに可愛いメヒカーナがいたりするかな」
そんなTVドラマにでてきそうな上司の軽口を軽くかわしながら、「今回は留学時代の同級生の結婚式なんです。仕事大変な時期にいつも長期休暇すみません」と、シンイチはラファエルとピラールの結婚式参加を休暇の口実に使う。今回は、実は、麻里とベラクルス州に1泊2日の旅行の計画もあった。初めて応じてくれた旅だった。
1991年は、日経平均が89年に歴史的高値をつけてからずるずる下げ続けて2年目だったが、あまり不景気入りの実感はなかった。
92年にはいると、80年代のあの狂騒は「バブル」だったと総括されたようで、リゾート開発の破綻や不動産関連のゼネコンとかの倒産が相次ぐと、もう不景気なんだという、平成に入って初めての寒い風が世間に吹き始めていた。
一方のメキシコは、不思議なことに経済は80年代の経済危機がうそだったかのように絶好調。理由は簡単で92年に交渉の詰めをむかえていたNAFTAという北米の関税協定をにらんで、世界中の企業が工場設立のメキシコ詣でを始めていたことにあった。
NAFTAが発効すれば、賃金の安いメキシコで作った製品をメキシコ産として米国に非課税で輸出できる。NAFTAは92年末に調印され94年に発効となるのだが、既に91年頃から諸外国からメキシコでの現地生産の工場建設の直接投資が始まっていた。
いつもの、土曜日のアエロメヒコのメキシコ直行便。
目的地のメキシコ・シティが近づいて着陸態勢になると、機内にメキシコ音楽がかかる。今回は、シンイチも知っている曲がいくつか流れてくる。
往年の3人組の生ギターの合唱、トリオ・ロス・パンチョス。おっさん3人だが、牧歌的で、ゆったりと、きれいなハーモニーを聞かせてくれる。
「何故、ラテンポップスは「男が主人公の失恋もの」が多いんだろう」シンイチは思う。
日本だと、演歌とかだと、男に振られた悲しい女の心を唄うというようなのが多いが。
アルゼンチンタンゴでも、シンイチとラファとホアキンのバンド、トリオ・ロス・アロマンティコスの持ち歌のメキシコの歌謡曲のボレロでも、男の失恋の嘆きの歌詞が多い。
ちなみに、シンイチのバンド名の由来は、「こてこてのロマンティックなボレロを現代的にクールに歌おう」と、非ロマンティック、「アロマンティコス」とラファエルが命名した。
しかしラテン歌謡の失恋男の嘆きは情けないな、おまえらラテンの男はマッチョじゃなかったのか、とシンイチは思うが、片想いの辛さを唄う歌詞にはちょっとじんときてしまう。
「私の究極の失敗」(歌詞部分抜粋訳)
「こうやって生きるのが自分の運命
あなた無しで生きるのが悲しい苦悩
この世に迷いとまどい
そして私の究極の失敗はあなたへの愛
あなたは私の究極の失敗
もう他の誰も好きになれない
でももう、あなたを許す気持ち
あなたは私の心を幸せにしてくれたので
私に想いを返してくれなくても
あなたが私の愛」
結婚式はコヨアカンのカトリック教会、披露宴はラファエルの実家の庭だった。
ラファエルのおやじはカンクンのリゾートホテル開発で一儲けしたらしく、閑静な住宅地にけっこう広い家に住んでいた。ラファエルの同級生がみんな呼ばれていて、シンイチにとっては同窓会のような再開であった。
当然、ラファエルとピラールはシンイチに麻里を誘ってこいと言ったが、麻里は結婚式の翌日が博士論文の締め切りだということで絶対無理、航空便の手紙でやりとりするうちに、結婚式は無理だけど代わりに論文を提出してからいっしょに旅行しようということになる。シンイチとしては、むしろそちらにわくわくした。初めて応じてくれた旅行。少しづつ思いが伝わってきている、そう思った。
しかし余計なことは、麻里はなにを思ったのか、ラファエルとピラールの結婚式の披露宴に代わりにエリカを連れてってくれという。「1人じゃ寂しいでしょ。私の代わりにね」と。
結婚式当日。ピンクなミニのドレスに長いストレートの黒髪をおろしたエリカは目立った。
サカテカス・ピンク、淡いピンク色。サカテカスというメキシコ中部の銀山でかつて栄えた街は、近隣でとれるピンク色の砂岩で多くの建物ができていて、別名ピンク・シティとも言われるが、ドレスはそんな優しい感じのピンク色だった。淡いピンク色のミニからすらっとした脚が伸びていて、いつもよりさらに華やいだ感じがした。
シンイチは同級生に会うたびに、律儀に「(連れてくる予定だった日本人がこれなくてその友達のメキシコと日本のハーフの女性です)」といちいち説明していた。
「シンちゃん。もう面倒だから、私のことメキシコ人のノビア(フィアンセ)とか言っちゃう?今日だけの」エリカがいたずらっぽく笑う。
「ないないない。誤解をうむよ。ややこしくなる」冗談とわかっていても焦るシンイチ。超美人がそんなことをいわないでくれ、こちらが勘違いするからと思う。
「私、メキシコ人にもなれるんだけど。実はメキシコのミドル・ネームもあるの。カッコ悪いから人に言わないけど」
「え、なになに?」
「・・・グアダルーペ。おかあさんの実家の苗字はマルチネス。なので、グアダルーペ・マルチネス。愛称でルピータ・マルチネスでもOK」
「え、それって、コテコテ、メキシコ人」とシンイチは思わず笑う。そして、独り言をつぶやく。「しかし・・・またグアダルーペさんか」
「よくある名前よね、こっちでは。同級生で同じ名前の好きな子がいたとか?」エリカがそれを聞いてそう言うと、ワインを一口飲んでグラスを置く。
「いや、それはないけど、メキシコって、マリア崇拝と巡礼とか、根強くあるなと思って」そう言うと、こっそりため息をつく。長い道のりで神やら悪魔やらから課される試練の積み重ねにうんざりしてきた巡礼者のように。
そして声に出さず自分に言う。「おれって、本当はシンプルなのがいいんだよね。道歩いてて、一目惚れして、それで人生決めたとか。これじゃ、グアダルーペのマリア信仰に翻弄されてる人生みたいだ」
披露宴の席でコース料理と何人かのスピーチが終わった頃、エリカが周りが日本語がわからないのをいいことに、突然もったいぶった口調で言う。
「あのね、クレヨン君。ひとつ忠告。麻里をよく理解している人間としての忠告」
「?」
「あなたが彼女のことがとても好きなことは、私もみんなもわかってるし、へたしたらストーカーみたいだけど、ずっと何年も辛抱強く気持ちを伝えているのも知ってる。ある意味、そのちょっと節度のあるひたむきさというのが、ちょっと羨ましかったりもする。ラテン男みたいにひたすら強引でうざくない感じだし。
麻里のほうは私の知る限り現在付き合っている人とかいないし、もしかしたら、これまでも付き合ったというのがないのかもしれない。あんなに可愛いのにね。ちょっと変わってる。彼女。
そして、彼女はあなたのことを人間としていい人だと思っていると思う。そして、そういう部分でいえば、あなたのことを好きだと思う。
でもね、あの人は、今は自分の研究のことで頭がいっぱいだし、それにもっと大事なのは、これ、よく聞いてね。
彼女は、あまり男女の愛情というか、いま90年代だから社会が進んでるアメリカで言われているような男同士や女性同士の新しい愛情の形でもいいんだけど、ほんとうに身を焦がすように人を好きになるというような恋愛感情というのが、わからない人なのかもしれないの。
うまくいえないけど、性的なものが無い、デビット・ボウイが雑誌のインタビューで言ってたけど、「ア・セクシュアル」とでもいったらいいのか、中性的というのとはまた違うんだけど、あなたみたいに強い恋愛感情に突き動かされる人とは対極にある、恋愛不感症みたいな人は存在して、そんな人かもしれないの。
あなたとラファとホアキンのバンド名トリオ・ロス・アロマンティコスみたいに、ロマンティックなとこが無いって言う意味で、アロマンティコ、非ロマンティック、ア・ロマンティックな性といってもいいのかもしれない。
まあ、あなたたちバンドの場合、ロマンティックに演奏しようとしてもそうならないという問題だけど、ロマンティックなことに対する不感症みたいな人はいるのよ。
でもね、決して、麻里が薄情な人とか、人に対する関心がないとかではないのよ。友達としては最高、思いやりもとてもある。女性としての魅力もすごくある、とてもかわいい人。私も時々どきっとしちゃうくらい。
でもね、ア・ロマンティックで恋愛感情が沸かない、そしてア・セクシュアル、性的なものに対する無関心というか、へたすると性的なことへの嫌悪みたいなものを持っているかもしれないの」
「でも、そうやって決めつけるのもなあ、アメリカの性の分類みたいに。たしかに、そういう会話を避けているところはある。すぐ違う話題にそらされる・・・ところで、そういうエリカは恋愛事情ってどうなってんの?」
「私は情熱の女よ。相手の、外見も内面も、すべてを愛しつくすの」
「ははは、それも恐い感じがするけど、ラティーナという感じだな、大和撫子のDNAというよりも」
「シンちゃんも想いは相当強いほうようね。ここまで辛抱づよく好きだなんて。今どき珍しい、基本ストーカー気質よね、良く言えば、節度があって犯罪まで至らないストーカーさん。誠実そうにみえて、少しづつ、少しづつ、じわじわにじり寄って、いっしょに時間を過ごした既成事実を積み上げて、相手に自分の味を押し付けているみたいな、ずるいところもちょっと感じる。
一方の麻里のほうは、その強い気持ちの衝動の対極にある人かもしれない。恋愛感情を誰にも全然感じないの。本当にそうなのかしらね。一度だけ麻里とこの話をしたことがあるけど、私も話をはぐらかされた。そういう話をすること自体がほんとに苦手みたい」
「あの人はね、マリア様みたいに、いつかの日か、神様から処女受胎しちゃうのかもしれないわね」
エリカは複雑な笑みを浮かべてワイングラスを手にとる。その仕草が雑誌のグラビアみたいにきまっていた。
シンイチは返す言葉も思い浮かばないので、目の前にあったシャンパンをぐっと一気に飲みほす。泡にむせる。
「おめでとう!3年間ご苦労さん!」翌夜、コヨアカンのカンティーナ(酒場)で3人が祝杯をあげる。
「麻里の博士号に乾杯!グアダルーペのマリア信仰と共同体の成立、だっけね」
「そう、正確には、共同体の変遷。ありがとう。
でも論文を提出しただけで、通るかどうかはこれからの審査次第。まだまだ、まだまだ、長い道のり」と徹夜して疲れ果てた顔をした麻里が答える。
「でも今夜は祝杯だよ。ひとつの節目だし。これ持ってきた」とシンイチはカバンの中から木箱にはいった赤ワインを取り出す。
「ボルドーのけっこういいヤツ。日本で買ってきた。30年もののビンテージ。もちろん僕らの生まれ年。けっこうワインにはいい年だったらしい」
「へーえ、30年。高かったんでしょ。人間にもそういう年とともに価値があがるのあるといいわね」エリカが言う。
その夜はかなり飲んだ。
ビールに始まり、ワイン、隣国グアテマラのプレミアム・ラム酒ロン・サカパのストレートに、普通のバカルディのクーバ・リブレ、最後は普段はめったにやらないテキーラ・ショットを3人であおった。
酔いがまわる。またエリカが絡みだす。
「おい、クレヨン。君さ、ルーチャ・デ・エナーノスが凄いんだとかいってたよね。あの見世物みたいな小人プロレス」
「自分の体を肯定的に受け入れろとか、安易に言わないでよね。彼らはね、小人症になろうと思ってなったわけじゃないし、小人レスラーに憧れてなったわけでもないの。でもこの社会があの人達にオファーする仕事があれだからやってるの。自分の体を受け入れて生きていくというのは、人によってはとても大変なことなのよ。
心と体の問題。それは違和感が性的なものになると、もっと問題は深刻なの。その人の命を左右するくらい大変なことなの」
今度は性的な傾向の話になっている、また結論のない、くどい堂々巡りの議論が始まったとシンイチは思う。
そして言ってみる。
「オレだって、小学生の頃は野球少年で、結構真剣にやっていて、外野だったけど、将来プロの野球選手になれたらなとか思った。一時期、真剣にそう思った。でも、体力もないし、素質もない。それであきらめた。
で、自分は、『野球選手になれない体に閉じ込められた心は野球選手の人間なんだ』とも思って悩んだ」
・・・
「それとはこれは全然違う!」
エリカと麻里がほぼ同時に強い口調で同じセリフを言う。かぶる。
「辛さを全然わかってない」エリカが言う。
「あなたは大事なことを何にもわかっていない」麻里が言う。
シンイチは両側から責められる。
「次元が違う話。野球選手になれなかったからって自殺を考えないでしょ?」
麻里が詰問する。
「夢が壊れるのも辛いでしょうけど、自分であることを否定されて、社会のために矯正されて、それで生きていくことが辛くなるっていうのは、茨の冠に重い十字架をしょって歩かされているようなものなの」エリカが言う。
「・・・野球少年を例にだしたのは悪かった。たしかに次元が違う。謝る。
でも僕のいいたいことは、誰しもかなわないことが人生あって、それは辛いけれど、折り合いをつけて生きていかないといけないということで、それをチャレンジとして前向きに捉えたらいいんじゃないかということで、あのエナーノのルチャドールにはそれを感じたということ。それだけ。なにか傷つけることを言ったんだとしたら、ごめん」
沈黙。
遠くに、古臭いメキシコのロマンティック歌謡ボレロがかすかに聞こえる。
バーのスピーカーから流れるBGM。情けない、失恋して嘆くラテン男の唄。感傷的なメロディ。
気がつくと、エリカは酔いつぶれてテーブルにつっぷして寝ている。
「エリカはね、高校生のときに好きな女の子がいたのよ」麻里が言う。
「相思相愛の大恋愛だったのに、親たちに、引き離された・・・相手の女の子は首をつって自殺した。彼女も睡眠薬飲んで死のうとした。でも死ねなかった。それをずっと今でも引きずっている」
酔ったエリカをシンイチがおんぶして、3人でほんの数ブロック歩いたところにあるコヨアカンのエリカのおかあさんの実家に送り届ける。そこからタクシーでテペヤックの丘へと戻る。もう時計は深夜をすぎていた。
結構な量のアルコールを飲んだのに、シンイチの頭はすっきりしていた。
すでに気持ちは、盆地のメキシコ・シティを囲む高い山々を、ベラクルス方面へとぬける青空いっぱいの山道をドライブしていた。
「明日は5時起きでもう鍵をもらっているラファエルのぽんこつワーゲン・ビートルをとりにいって、6時には麻里をピックアップ」寝る前に、そう声に出して自分に言っていた。
麻里も早起きしてご飯をたいて、朝ごはん用のおにぎりを作るという。「運転しながら食べれるのはおにぎりが一番よね」とか言っていた。
片道400キロの強行軍のベラクルス州へ1泊2日のドライブ。山道には山賊もでるとかいうが大丈夫だろう。目的地は、古代マヤ文化のボラドール(空中飛行)舞いがみれる、ベラクルス州の古都パパントラ。
シンイチは、ちょっとにやけて、そして深い眠りについた。
(続く)
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