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【連載小説】 「私の味(サボール・ア・ミ)」  (7) ボラーレ 


「そう。有名なフランス南部のルルドのマリアの奇跡はね、19世紀に14歳の少女の前に現れたの」

昼食後のパパントラまでの道のりでも、麻里はマリア信仰の解説を続けている。

「みんな懐疑的だったのが、その無学の少女がラテン語のインマクラダ・コンセプシウ、つまり無原罪の受胎という言葉を聞いたというので、急に信憑性が高まった」

「そして、聖母は少女に、聖なる泉についての指示をする。泥水だったところが清水になって、そこにルルドの泉の伝説が始まる。どんな難病もその泉につかると治るという。それでルルド参りの巡礼も始まったの」

「そういえばアメリカでこんなルルドジョークをきいたなあ。車椅子の老女が歩けないので車椅子ごとルルドの泉につかった。すると歩けるようになった!じゃなくて、ぜんぜん歩けないんだけど、車椅子が新品になっていた、という奇跡が起きた」

「そのジョーク考えたアメリカ人、ばちがあたるわね」と麻里は苦笑いする。
 
「それでルルドの特殊性は、学者にいわせると、ルルドがたんなる傷病者が奇跡で癒やされる救済の場というだけじゃなくて、傷病者に尽くすカトリック信者たちもクリスチャンとして傷病者のためにそこに居てあげて、ディスポニーブルになってあげるという場所、そんな宗教的共同体が形成されたとみているの。

難病の人があたかも我々の原罪を背負って身を捧げたイエス・キリストのように或いはその後の殉教者のようにとらえて、ボランティアたちも彼らに尽くすこと自体が自らの魂の救済につながるというような考え」

「情けはひとのためならず、っていうことか。たしかに、巡礼は、巡礼者の視点ばかり語られるけど、巡礼を支える人たちっていうのも自分たちも癒やされているんだなあ」

「そうね。聖母信仰的なものって、それがマリア様でも、菩薩観音様でも、ほかの様々な土着宗教の女神様でも、奇跡による救済のシンボルには往々にして優しい女性性の神様がいて、それにすがる難病や苦悩を抱いた巡礼者がいて、さらにそれを助けるサマリタンがいて、それで巡礼の共同体が成立しているの」

「・・・君がいて、僕がいて、ラフェルやピラールがいるような・・・あ、この先がパパントラの入り口だ」
 
ベラクルス州パパントラ。
 
シンイチたちの緑のビートルは、標高2200mのメキシコ・シティから休憩をはさんで6時間ほどの山道を経て、この目的地にたどりつく。標高は300mほどしかなく、周りはうっそうと熱帯樹林が茂るジャングルが広がる。

ベラクルスとプエブラに広がるトトナカ族の地方。バニラの原産地で、19世紀までバニラの世界的な産地として繁栄した。その後、この地にしかいない特別の蜂しか受粉できなかったバニラの受粉の人工受粉法が発明された後は、産地はアフリカ他世界各地に広まり、独占がもたらした栄華が終わる。いまでも高級食材として天然物パパントラ物のバニラ・ビーンズの生産は細々続けられているが。
 
「パパントラのボラドール(飛行人)って、じつはここ独自のものじゃなくて、メキシコや他の中央アメリカ、メソ・アメリカ全体にみられる儀式なの、雨乞いや豊作祈願の」

麻里が説明する。
「メキシコ・シティにもボラドール用の広場があって、スペイン侵略前は豊作を祈ってボラドールたちが飛んでいた。いまはその広場はもうないけどね」
 
ガイドブックにあるとおり、パパントラ郊外のマヤの遺跡エル・タヒンのほうへと車を走らせると、遺跡の入り口の原っぱのような空き地に木製の電柱みたいな柱がみえてくる。30、40m、建物にして10階くらいありそうな高さ。てっぺんにロープが中に巻いてある木の枠がみえる。

すでに観光客が数十人そこに集まっている。打楽器と笛がかなでる、民族音楽が始まっていた。それにあわせて、白い装束に色とりどりの帽子をかぶったボラドールたちが軽くジャンプしている。ウォームアップだろうか。
まず小さな太鼓をたたいていた男が、すいすいと柱を登り始める。柱には小さな足をかけるところがついているようだ。続いて、4人のボラドールたちもそれを追って登り始める。

麻里、シンイチ、その場にいた観光客は、手で眩しい太陽光を遮りながら、その柱のてっぺんを見つめる。真っ青な、青の中の青という空をバックに、太鼓の音が聞こえる。最初に登ったのが、直径30cmもないであろう柱のてっぺんで、音楽にあわせてジャンプしているのがみえる。落ちそうで、かなりあぶない。観光客は盛り上がる。
 
4人の男たちは四方から真ん中に向いて枠に座り、枠の中の柱に巻いてある太いロープの端をしっかりと命綱のように腹に巻きつける。そして、ボートから水中ダイブするように後ろ向けに倒れるように重心を移す。

男たちの体重で可動式でまわる木の枠が柱をゆっくりと回り始める。

回転でだんだんロープがほぐれていって、男たちが頭を下にして逆さまに回り始める。

ロープにつながった男たちが弧を描いて、青空を背景に飛んでいる。サーカスの空中ブランコのようにゆったりと優雅に、規則的に、描いている輪を大きくしていきながら。
 
「わあ、凄い。最高!。ずっとこの本場のが見てみたかったの。夢がかなった。感激。飛んでる、飛んでる。すごーい。青い空の中で。あの頭の羽飾りがほんとにきれい」

麻里は大空に飛ぶボラドールの舞いに感動していた。とても幸せそうに満面の微笑を浮かべながら。シンイチはそれをじっと見て、この光景もしっかりと自分の網膜の記録に焼き付けなければと思った。

「気持ちよさそうだなあ・・・やっぱ、メキシコ人、飛ぶの好きなんだなあ。ルーチャのレスラーもよく飛ぶけど」とシンイチ。
 
フルートのような笛と太鼓が奏でるゆっくりした曲をバックに、ボラドールたちはゆっくりとゆっくりと30回くらい回って空から降りてくる。
そして、地面に近づくと、彼らはさっと同時に足から小走りに着地して、それで回転が止まる。

観客は拍手する。チップ回収の民族衣装の若者が観光客の間をまわる。
 
売店で、パパントラ名産のバニラ・ビーンズを買って、車にもどる。
ちょっと、車がバニラの香りにつつまれる。甘く、いい香り。たぶん合成されたバニラ・エッセンスよりも、一段と濃い香り。
 
車を出す。

「さて、晩飯と今晩の宿探し、どういたしましょうか」

・・・

「・・・今晩、条件付きのイエス」

唐突に、麻里が助手席で、視線は前のほうに置いたままで言う。
 
「えっ?」
 
「・・・OKだけど、条件付き。
あなたのこと、まだ気持ちを決めかねてるから、自分の気持ちがどうなのかわからないから、結論が出せてないから。条件3つ付きのイエス。
 
ひとつ目、今夜の承諾は今夜だけのものとしてほしいこと。なにかの一生の承諾ではないこと。

2つ目、それだから、これで 「僕のガールフレンド」とか「マイ・フイアンセ」みたいに所有格で語らないで欲しいこと。そういう承諾ではないこと。

3つ目、強引に乱暴にしないこと。背中をトントントンと三回たたいたら、限界でギブアップ」
 
「・・・わかりました」シンイチも前を向いたままで答える。
 
沈黙。

沈黙を照れ隠しするかのようにシンイチが言う。

「・・・3つって言うから、宮沢賢治の注文の多い料理店みたいに、体に塩を塗り込んでくださいとかだったらどうしようかと思った」

麻里がちょっと笑う。

「・・・3つ目はさ、こんなこと言うの変だけど・・・変だなあ、いや、でも言っちゃうと、僕はもう30だし、当然経験はそれなりにあるし、まあ、経験相手はプロ中心だけど、強引乱暴なことはしない」

「それは心配していないの。私の中の限界との話。それにあなたがプロのところにいっているというのは、ピラールから聞いて知っているの。ラファエルたちとつるんでそういうところ行ってるみたいって怒ってた」

「・・・恥ずかしい。穴があったら入りたい。ラファのやつ口が軽いというか脇が甘い」

「・・・ところで、今晩だけど、ホテル開発やっているラファのオヤジがこの先のエスメラルダ・ビーチに去年オープンしたリゾートがあって、そこ、オヤジさんの名前言えば安く泊まれると言っていた。シーズンオフだからあいてるだろう。晩飯の場所から公衆電話で電話してみよう。それがだめならどこかベラクルスのホテルだな」
 
海に面したレストランに着く。もちろん、ベラクルス料理。メキシコ湾に面した港町。シーフードが美味しい。
 
メイン・ディッシュをペスカド・ア・ラ・ベラクルセーナという白身魚にトマトベースのソースで煮込んだ名物料理とシーフードのパエージャを頼んで、二人でわける。

前菜のつまみの、小さめのエビを揚げて塩をふっただけのものにライムをたっぷりかけてテカテ・ビールで胃袋に流し込んだら、言葉を失うくらい美味だった。人生で一番美味しいエビ。セビーチェも美味しかった。魚とか貝とかイカとかエビをライムジュースでマリネして、小さく刻まれたシラントロ(コリアンダー)が山ほど入っている。ライムもシラントロも、ふたりが大好きな味だった。

「こんな新鮮なシーフード久しぶり。メキシコ・シティじゃ食べられないわね」とセビーチェをスプーンですくいながら麻里が言う。
 
幸い、その晩の宿も、ラファのおやじのリゾートの海に面した部屋があいていて、話は聞いているから無料でいいと電話の主は言う。
 
ツナマヨおにぎり、ケチャップ、ボラドール、バニラの香り。そして3つの条件。今日は、なんという劇的で素晴らしい日なんだろう。ブレなくてよかった、辛抱強く歩みを続けていてよかったと、長い長い巡礼の目的地の聖地まであと少しとなった巡礼者のように、シンイチは心ときめいていた。
 
「それで、さっきの巡礼の話だけど、奇跡で難病が治ることだけがルルドの存在意義じゃなくて、それを助ける信者がいることで、傷病の共同体が成立した、だったよね?」

「そう。ある意味、奇跡が起こることが目的でなくて、巡礼をしていること自体が目的だったり、巡礼を支えているのが目的だったり。そんな意味でみんなが支える共同体なの」

「僕の場合、僕の巡礼での奇跡がなんであるかの定義は、とてもはっきりしているんだがな」と言ってシンイチはクーバ・リブレを一口飲む。
 
「その思い込みすぎが、ときどき怖くもある。でも嬉しくもある。それに答えられない自分がもどかしくもある・・・」

「ひとつ言えるのは。これ、今回の旅行であなたに言おうと思って考えてきたセリフ。私なりの、今の正直な気持ち」
 
麻里もピニャ・コラーダを一口飲んで言う。

「あなた以外に好きなひとはいない。あなた以外と結婚することはない。
子供は好き。普通の結婚して、子供を授かって、愛情を注いで育てる。そういうのっていいな、そういうのはあるかもしれないとおもうことがある。
・・・でも、いろいろ考えると、私の人生にほんとうに結婚という選択があるのか、私がそういう人間なのか、それとも結婚を一生しない人なのか、その結論は私の中ではまだでていないの」
 
シンイチの脳裏には、昼間見た、青空の中をゆっくりと飛んでいるボラドールの姿が浮かんだ。すると、ボラーレ、飛ぼうよという曲が流れてきた。
ジプシー・キングスのヒット曲ボラーレ。原曲はイタリア語だからか、何故かスペイン語で始まるがサビだけ原語のイタリア語で「ボラーレ、カンターレ」となる。躍動感あって明るい曲調だが、歌詞をよく読むと、失恋の唄。同じような夢心地な気持ちはもう帰ってこないと歌っている。
 
「ボラーレ」(歌詞部分抜粋訳)
「同じような夢はもう戻ってこないと思う
それで手と顔を青で塗った
すると突然に強い風が僕を動かし
そして永遠の空に飛び立たせた
飛ぼう、歌おう
青く塗られた青の中で幸せな気分
そして幸福に飛んで飛んで
僕は高くまで、太陽より高くまで届く
甘い音楽が僕だけのために演奏される中で」


https://www.youtube.com/watch?v=qmbx4_TQbkA


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