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【連載小説】 「私の味(サボール・ア・ミ)」  (13) いちどだけ

(13)  いちどだけ

麻里の下宿は、グアダルーペ寺院から徒歩5分くらいにあった。
 
初老のメキシコ人女性が住む、5階建てのアパートの3階の3ベッドルームの一室の、一番奥の小さな部屋を麻里は借りていた。大家さんのメキシコ料理の三食食事付きでそれがとても美味しいから、ここからはもう引っ越せないと麻里は言っていた。唯一の不便さは電話がリビングに一つしかなかったことだったが、当時はそれが当たり前ではあった。

不思議なことに、麻里は、部屋にはいる前に、持っていた塩を体に振ってという。シンイチはそれに従うが、これ、仏教だよな、神道かな?と思う。

「家は浄土真宗だったの。葬儀から戻ったら、お塩を振る、そうやって育てられてきた習慣・・・」麻里が言う。
 
喪服を脱いで、まずシンイチがシャワーを浴びる。
 
ベッドはひとつしかないので、麻里のシャワーが終わるまで、シンイチはベッドのへりに腰をかけて、サイドテーブルにあった本をめくってみていた。

なにげなく手にとった本は、スペイン語で書かれた本だったが、写真がたくさん載っていた。題は「グアダルーペのマリア像の秘密」みたいなタイトル。

それをぺらぺらとめくっていたら、パジャマ姿の麻里がバスルームから出てきた。
 
「その本、マリア像の布が何故500年も劣化していないか、とか、マリア像のマリア様の眼の中に肉眼ではわからないくらい小さく描かれている人物の姿の話とか、おもしろいでしょ。トンデモ本っぽいけど」

「聖なるマリア像の布を顕微鏡で拡大してみたら、マリア様を見つめるディエゴ少年の顔が、マリア様の瞳のなかに描かれていたっていうのは、なんかいいよね。不思議だし感動的だな」

「そうそう。奇跡を見た!みたいな人間側の一方的な話じゃなくて、奇跡そのものの現われたマリア様の眼の中にもしっかりとその奇跡を見た人々の顔が映っている・・・

信仰って、実は「神様に対する人間の片想い」で、一方的な崇拝なことが多いのだけれど、マリア様はちゃんとディエゴ君のことを見ていててくれて、それが瞳の中に映っている。

私もあなたを見てますよ、という深い慈悲の心。観音菩薩様にも通じる優しさよね。私がマリア信仰に惹かれるのは、そういう優しさにあるのかもしれない」
 
「もう電気消す?疲れたでしょ。ベッド、狭いけど我慢してね」
 
ベッドにはいったが寝付けず、暗闇の中で、ふたりの会話は続いていた。


エリカとの想い出の話になると、麻里は、突然泣き出す。唐突に、堰き止められていたダムが崩壊したみたいに、大泣きする。

次々とこみあげてくる嗚咽を抑えられず、幼児が泣きじゃくるように泣く。

シンイチは、そんなに取り乱す麻里は初めて見た。シンイチのパジャマがわりのTシャツの胸に頭を擦り付けながら、泣き続ける。シンイチは、そっとそれを抱く。
シンイチのTシャツがだんだん涙でびしょびしょに濡れる。
 
・・・
 
しばらくして、その発作のような号泣がおさまると、ぽつりと麻里は言う。
 
「私ね、不思議な霊感があるの。でも、あまり役にたたない霊感なの」

「人が死んで、その魂が会いに来てくれると、匂いでわかるの。でもそれだけなの。見えたり話したり、霊媒みたいに魂と交流できるわけでもないの」

「おばあちゃんが死んだ時、お葬式が終わって何日かしてから、夜寝ている時におばあちゃんが来てくれたのがわかった。おばあちゃんの匂いがしたの。

べつにおばあちゃんの服がそこにあったわけでもなくて、そこにないはずのおばあちゃんの匂いがした。それで、そこに来てくれてるってわかった」

「犬のコロのときもそうだった。死んでから、3日くらいたってから、コロの匂いがした。

あ、コロ来てくれたんだなってわかった。嬉しかった。そういうことが、いままで10回くらいあったの。

おかあさんとか、なに馬鹿な事言ってるのと信じてくれなかったけれど」

シンイチは黙って聞いている。


 
「今ね、エリカ、来てるの」

「・・・?」

「そこ、窓のほうに。見えないし、なにも言わないし、聞こえないけど、匂いでわかるの。エリカの匂い」

「香水とか、そういう匂い?」

「そうとも言えるし、そうでもないような。でもこれはエリカだっていう匂い。彼女がつけてた香水もあるかもしれないけれど、エリカがいる時に感じていた匂い」

「言葉にすると、どんな香り?」

「・・・早朝の、霧が深くかかった森林の、これから朝っていうような、爽やかな香り」

「・・・待てよ、森林?さわやか?
・・・僕にも、匂う・・・不思議だ・・・

・・・今、そこから、窓の方から、森林浴の芳香剤みたいな香りがしている・・・」
 
すると匂いが漂ってきている窓のほうの、窓の外で、がさがさっと物音が聞こえる。
 
耳を澄ますと、偶然、遠くはるか遠くに、グアダルーペ寺院の時を告げる鐘の音が聞こえていた。からん、からん、からん。
 
鐘が終わると、また静寂が広がる。
 

そして、窓の外で、小さな鳴き声が聞こえる。
 
「・・・みゃ~おぅ」

猫だった。
 
すると、麻里は突然笑い出す。

堪(こら)えきれずに、大きな声をだして、笑う。

「・・・えええぇ?こんなことってあるの?・・・小説みたいじゃない?・・・なに、このタイミング・・・うそみたい・・・持ってきてくれたのよ・・・贈り物」

「・・・え?・・・贈り物?
・・・
猫の三賢者?・・・あと残り一匹のなんだっけ、黒猫の?」

「バルタザール。白髪の混じった黒猫くん。新約聖書によると、乳香(にゅうこう)を持って、訪ねてきてくれるはずだった」

「そういえば、麻里からの手紙に乳香ってあったから百科事典で調べてみたんだ。

シナイ半島だかに生える木の樹脂で色は乳白色、それを焚くと、たしか、香りは森林のような爽やかで清涼感があって、不安を和らげて、気分を高めてくれるとか書いてあった」

「・・・そうね、エリカの匂いも、乳香みたい・・・深い森みたいで、すがすがしくて、元気をくれる、とてもいい香り」
 
「猫賢者がエリカを連れてきてくれた・・・これで賢者の贈り物3点揃って、ビンゴ賞とかあるの?」シンイチはつい軽いジョークを言ってしまう。

麻里は、笑った。けらけらと爆笑した。
久しく聞いていなかった、心からの大爆笑。涙を流しながら笑っている。

シンイチの胸板の上で体を揺らして笑っている。その振動が伝わってくる。そんなにおもしろかったかな、とも思うが、つられて、シンイチも爆笑してしまう。

爆笑して動く麻里の脚がシンイチの下腹部あたりに触れる。
 
「・・・シン、硬くなってる・・・」

「うん。これは性欲。近くにいる君の体に反応して気持ちとは別次元で体の反応としてでてきている性欲」

「エリカからジェンダー論とかセクシュアリティの学問について、いろいろ学んだ・・・君はそういうことを議論すること自体が苦手かもしれないけど、エリカはいろいろ解説してくれた。
 
僕なりの考えの整理。

性欲はあくまでも肉体的な反応。

恋愛感情のほうは、もっと精神的なものだけど、恋愛のほうはある種の人にとってはとても強烈な感情として現われて、どうしてもいられなくなるくらい、その人の一生を方向づけるくらい抗(あらが)えない感情で、ドラマや小説であるように、そのために生命をかけて死んでいく人もいる。

叶わぬ恋や大失恋は、それは野球少年が野球選手になれなくて夢敗れる失望感とかとは比べ物にならないほど心を打ちのめして、時に、その人をぼろぼろに廃人のようにしてしまう。

たとえは悪いけれど、苺ショートケーキが大好きな人がいたとしたらね、その好きさ度合いを1とすると、その1000倍くらい強い感情を相手に対して持って、ずっと忘れられなくなる。想いがかなわないと死んでもいいとおもうくらいになる」

「・・・ケーキ1000倍は辛いわね。私はその感覚はわからない・・・でも、そんなに強い感情だったら、一途な思い、へたするとストーカーみたいな思い込み、そういう傾向が強い人達を、一種のジェンダーの在り方のひとカテゴリーみたいに肯定して、理解してあげるのも必要かもしれないわね」

「うん。なので僕のジェンダーはSだな。ストーカーのS 。LGBT+Sとして性的マイノリティーに加えてほしい。とても強い思いだし、一生を左右するくらいの問題で正直、辛い」

「・・・それってセクシュアリティとはちょっと違うような気もするけど。

でも、私の、エリカの判断によると「ア・セクシュアル」だというのも性的関心がないというのが性的マイノリティのひとつの在り方だとするのと同じような意味で、ストーカーにも言えるのかもしれないわね。

私も少しづつ、性的なことについて避けずに考えて、自分なりに受け入れられることはそうしようとしているんだけど、やっぱり苦手なの。行為とかそういうことじゃなくて、そういう関係自体が。

ストーカーにアセクシュアル。一方は強烈すぎる恋愛感情、もう一方は恋愛感情が苦手。私達、どうしたらいいのかしら。
エリカがいたら、なにかすぱっとアドバイスをくれそうだけど」
 
麻里の脚がシンイチの下腹部にまた触れる。

「・・・まだ硬い。辛くはないの?」

「精液が溜まると性欲でむらむらするのは当然ある。そこで射精すると性欲がおさまるということもある。でも、医学的には、射精されなかった精液は静脈を通じて腎臓に運ばれ老廃物として処理されるらしい。なので、溜まってしまって体が大爆発するものではない。普通の人は自慰したり、スポーツで発散させたり、欲求をコントロールしている」

「・・・人間って辛いわね。男の体も辛いわね」
 
沈黙で静寂がゆっくりと広がる。
 
麻里はおもむろに、自分のパジャマの下を下着といっしょに脱ぐと、シンイチのパジャマの下とトランクスを脱がす。
 
そして、暗闇の中でシンイチに馬乗りになると、シンイチの右手をとって、自分の股間へと導いていく。
 
そこは既に、豊かな湿り気を帯びていた。

陰毛がしっぽりするような潤いであった。
 
・・・?
 
これは現実なのだろうか?
 
テペヤック丘の現代の奇跡が起ころうとしているのか?
 
シンイチの頭が、現実の展開についていけなくなる。
 
「・・・コンドーム持ってきてないよ・・・今、エリカもそこにいるし・・・」
 
「だいじょうぶ、だいじょうぶだと思うわ。今日は」
 
麻里はシンイチのペニスを自分へと導く。
 
しっかりとペニスが体の中にはいってから、自ら動く。
 
ゆっくりと動く。
 
だんだんと、呼吸が荒くなっていく。
 
シンイチは動きに両手を添える。
 
ふとももをしっかりと捉える。
 
麻里はかすかに喘ぎ声をあげ始めている。
 
暗闇の中で、シンイチは麻里そのもの、生身の麻里を感じる。
 
エリカの存在は、乳香の香りとともに、既に消えてしまっている。
 
感じている相手は、過去にみた金髪のAV女優の姿でもなく、妄想のなかのモレーナのエリカでもなかった。
 
麻里本人そのものが、そこに居て、シンイチを、シンイチの性欲を受け入れてくれている。
 
麻里が小さな声をあげながら、シンイチにしがみついてくる。
 
その体をぎゅっと抱きとめると、自分がもう限界にきているのがわかる。
 
 麻里を思いっきり、強く抱きしめる。その体の熱を感じる。
 
そして、シンイチは右手を伸ばすと、麻里の背中をトントントンと、プロレスラーがギブアップでロープを掴むようにシグナルを送る。
 
そして、思いっきり、すべてを、その暗闇で密着した相手の中に出しつくしていく。
 
出会ってからこれまでの4年分のすべてを、一気に射精した。ありったけ出し尽くして果てる。
 
いや、医学的には5日前に自慰して出した後に溜まりつつあった精子のすべてを出したにすぎなかったが、4年の巡礼の想い出と悶々と恋い焦がれた日々のすべてを、ひとつも残さず全部すべて麻里の中へとはき出した気がした。
 
こうして、いつもより遅い時期に実現した、1993年の巡礼が終わった。


 
「いちどだけ(ソラメンテ・ウナ・ベズ)」 (歌詞部分抜粋訳)

「いちどだけ
一生でいちどだけ愛した
いちどだけそれだけ
いちどだけそれだけ
我が庭では
希望が輝き
道を照らす
私の孤独でいっぱいの道を
いちどだけ
魂を捧げた
甘く、そして
全面的な降伏
奇跡が起こるとき
愛し合う不思議
宴の鐘が鳴り
心で歌う」
 



 
(第14章 「愚かな想い」へと続く)

全15章、毎週末公開予定:

第14章 「愚かな想い」

完結章


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