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【連載小説】 「私の味(サボール・ア・ミ)  (2) ある愛の物語

定宿オスタル・ルルデスの3階の1人部屋は、留学時代の最後を過ごした1年前とまったく変わっていなかった。

小さな窓から、古い方の、テペヤックの丘のグアダルーペの聖母マリアを祀ったバシリカ(寺院)が見える。荘厳なカトリックの寺院。そのバシリカの中央の聖堂のてっぺんの十字架がかろうじて見える。

「古い方」と書いたのは、18世紀に建てられたこのバシリカの隣に、外見が体育館みたいな巨大な新しいバシリカが20世紀に建てられているから。
その体育館みたいな新バシリカの方角から、かすかに賛美歌の歌声が聞こえている。団体観光客らしい土曜の午後のざわめきも、遠くのさざ波みたいに聞こえてくる。

1531年に、この丘でインディヘナ(原住民)のディエゴ少年が褐色の肌のマリア様を見たという奇跡については、追ってこの物語で登場人物たちに語らせるとして、話をまた、1991年8月、恒例の「タコス巡礼」でメキシコ入りしたばかりの主人公の動きに戻そう。
 
シンイチは荷物を部屋に置いて、ロビーへ降りていく。

「ホアキン、アルグン・メンサヘ・パラ・ミ?(伝言あった?)」
「ノー、ナダ。デ・ツ・アミーガ・マリ?ベルダー(無いね。麻里からだろ?)」
「シー。ブエノ、エスタ・ビエン。ボイ・ア・ジャマールラ(わかった、いいよ、電話してみるよ)」
 
時は1991年、まだスマホはおろか、インターネットもEメールもなかった。シンイチは前もって1ヶ月前ほどに麻里に航空便の手紙で今年の予定を伝えてあった。そして、麻里からその頃はDF(メキシコ・シティ)にいるはずとの、返事の航空書簡をもらっていた。
 
オスタルのロビーの公衆電話に50ペソ硬貨をいれて、麻里の下宿の大家の番号にかける。ズズズズズ。ポンコツな感じの呼び出し音の後に、おばさんがでてくるが、麻里は不在だという。

しかたないので、親友ラファエルの家に電話するが、こちらも留守電。やたら明るい声で、「(ラフェエルだけど、必ずメッセージを)」と言うので、宿についたことと、今晩食事はどうかというメッセージを残す。当時は、この自宅の電話メッセージ、そして公衆電話の黄金の組み合わせが人を繋いでいた。
 
ルルドの宿、オスタル・ルルデスのロビーは、フロントのカウンターとソファセットが2つといういたってシンプルなもの。ホアキンがカウンターに座ってぼうっとみていたロビーのTVの画面には、メキシコ版のMTVが映っていた。

すると、セピア色の映像とともに、ゆるやかなロマンティック歌謡、メキシコのボレロが流れてくる。

「(この曲、結構、古いやつだね。知ってるよ。トリオ・ロス・パンチョスのLPの中にはいっていた)」シンイチがホアキンに言う。

「(イストリア・デ・アモール、ある愛の物語。この歌手のグアダルーペ・ピネーダはね、まだ30歳くらいだよ)」

「(へーえ。グアダルーペ・ピネーダ、愛称はルピータちゃんか。おっと、凄くグアパ、超美人。ルピータちゃんはメキシコ人?)」

「(このミュージックビデオは明らかに古いイタリア映画の映像使ったクリップだな。このグアパはイタリアの女優。誰だろう、可憐で可愛いよな。で、歌っている歌手のほうは名前がルピータだからメヒカーナに決まってるだろ)」ホアキンが言う。そうそう、ルピータはグアダルーペの愛称で、グアダルーペはこのオスタルの近くにある寺院グアダルーペ寺院が祀る聖母と同じ女性の名前で、とてもメキシコ的な名前である。

シンイチとホアキン以外は誰も人のいない、土曜日の遅い午後の安宿のロビーに、古めかしいボレーロがゆったり流れる。
 
「イストリア・デ・ウナモール(ある愛の物語)」から歌詞部分抜粋訳
「いつもあなたは私がこの世に存在する理由だった
あなたを崇拝することが私にとって宗教だった
あなたとのキスの中に
私を祝福してくれる温かさを見いだす
愛と熱情がもたらす温かさ」
 
古風な純愛のビデオクリップをみていたら、シンイチは2年前のセレナータのことを思い出した。
 
留学先の大学の同級生のアダベルトが卒業後に奨学金もらってイギリス留学することになって、彼女が住む故郷のプエブラで今度「セレナータ」をするという。

ラファエルが、「シン、これ絶対来いよ。必見、これぞメヒコの伝統」と言う。「アダベルトの恋を応援しなくちゃいけないしな」と。
 
当日、平日の午後、車を2台連ねて、男ばかり8人がメキシコ・シティから南へ2時間ほどのプエブラまで向かう。

街につくと、まず腹ごしらえと、食堂みたいなところで定食を食べる。シンイチは、チキンを選んだ。ひとつのプレートに、地鶏みたいな焼いた皮がぱりっとした鳥の足と、団扇サボテンの棘をとって柵切りにして炒めたもの、レタスとトマトに、フリホーレス(ビーンズ)とライスがついてくる。テーブルにおいてある店の手作りサルサをたっぷりかけて食べる。サボテンであるノパーレスに、オクラみたいな、納豆みたいな粘り気があって美味い。身長が185センチくらいあるメキシコ人にしては大柄の同級生のマルセロは、定食にさらにライスとフリホーレスを大盛り追加している。

午後8時がすぎ、これからアダベルトの彼女の家へ楽団連れて行ってセレナータか、と思いきや、次は近くのローカルのカンティーナ(バー)に行く。
みなで、ラム酒1本とコーラを頼んで、それぞれクーバ・リブレを作って飲み始める。シンイチも従う。そう、イメージと違ってメキシコ人は毎日テキーラを飲んでいるわけでなく、飲むのはもっぱらビールかラム酒が多い。たしか、国内生産もラム酒が8割でテキーラが2割、そんな内訳だった。そして、何故か、その飲み屋でドミノのゲームを始める。

ドミノはあのドミノ倒しのドミノだが、4人で2人ずつペアになってやるゲームはかなりの知能戦。不思議にシンイチの同級生の間ではやっていて、飲み屋にいくと男どもが延々とこれをやっていた。これはメキシコではやっているのかと聞くと、ラフェエルが「全然。これ俺たちだけの流行り」とあっさりと答えたが。

シンイチも見よう見まねで参加したが、ルールはいたって簡単。ドミノそれぞれにある2つの丸の数を使って、同じ数を合わせるように並べていくだけ。しかしながら、最後のあがりのところで、ペアのうち1人が先にあがれば勝ちということで、いかに相手の持ち札を想像しながら、ときには1人が犠牲になってもうひとりを先にあがらすというような駆け引きがあるらしいというのがわかった。

毎回、日本円でいうと100円くらいの少額をかけて、勝負する。これが延々と続く。ラム酒が進む。また、1時間、2時間と時間が経過していく。
 
時計が午後11時をまわったころ、アダベルトがソンブレロと黒いマリアッチの服を来た楽器を持った3人を引き連れて現れる。
「(みんな、来てくれてありがとうな。準備は順調。まずはこいつらに酒を飲ましてから、出かけよう。午前2時くらいが目処)」と言う。

マリアッチ楽団は、大きなベースと、普通のギターより一回り大きいギター、そしてトランペットを持ってきている。ギターはコミカルなほど大きいサイズ。彼らはプロのミュージシャンだと言う。
 
そして午前2時すぎ。シンイチ達は、かなり酔っ払った状態で、プエブラの閑静な住宅地にある、2階建ての一戸建てのアダベルトの彼女の家に着く。
すると、ウッドベースがボンボンボンと鳴らし始めると、それにギターがはいってきて、そして、けたたましいトランペットの音が平日夜の住宅地に響き渡る。

前奏の後に、ギターのおやじがボレロのリズムのメキシコ歌謡を唄い出す。ベサメ・ムーチョみたいな曲調。騒音につられて、近所の窓に明かりがひとつひとつと灯って、カーテンを開けてこちらをみている影がみえてくる。
やっと、彼女の家の2階の窓に明かりが灯る。
窓に女性のシルエットが写る。窓辺に座って、音楽を聞いているのがわかる。

シンイチは、これ苦情はこないのか、平日の夜中だぞ、と思ったが、近所の人たちはおもしろがって窓からのぞいている感じであった。
 
そして5曲くらい唄が終わった後、アダベルトが窓の下へ歩み寄る。

そして長々となにか大声で、2階の窓の影に語りかける。セリフはシンイチのスペイン語力の理解を越えていたが、詩のような、唄の文句のような、おそらく、「君は私の最愛の人です」みたいな、甘ったるい愛の語りかけだった。

すると、多分、お決まりのクライマックスということなのだろうが、窓のシルエットが消えると、彼女が2階からおりてきて、二人はキスして抱擁する。

そこにいたみんな、酔っ払った同級生たち、彼女の家族、近所のやじうま、みんなが歓声をあげる。と同時に、マリアッチ・バンドはまたロマンティック歌謡を大音響で奏で始める。
 
ここはどこ?今は何世紀?シンイチは可笑しくなった。

話には聞いていた、ラテンの文化の、窓辺でする求愛の「セレナータ」。まだ、やってたんだ、この20世紀に。翌日大事な仕事があるサラリーマンも、夜中3時に騒音で起こされても、既に起きていた奥さんが「お隣がセレナータよ」とニコッとすると、それじゃしょうがないなと、そんな牧歌的な風習なんだろう。それがまだ残っていたとは。ちょっと羨ましくもあった。
「(これが俺たちラティーノの伝統だよ)」ラファエルがにやっとして言う。
「(俺もピラールに求婚するときはこれやるつもりだよ)」
 
オスタル・ルルデスのロビーで流れていたMTVクリップの曲「イストリア・デ・ウナモール(ある愛の物語)」も、その時のセレナータで演奏されたロマンティック歌謡曲のひとつだった。
 
夕方7時になったが、麻里からは連絡がない。部屋で寝そべって、腹が減ってきたなと思っていたら、フロントから電話だというので降りていく。安宿なので、部屋に電話はあるが外部とはつながっていない。
ラファエルからだった。

晩飯にもちろん行こうということで、どこがいいというので、留学中によく行っていたコヨアカンのウズラの店を指定する。ウズラ料理ばかり出す、変わった店。その名もカサ・デ・コドルニス、ウズラの家。

一応、また麻里の下宿に電話して、カサ・デ・コドルニスにいる旨を伝言する。下宿の年配のセニョーラは顔見知りでもあり、嫌な顔せず伝言を受けてくれる。
 
地下鉄を乗り継いで、最後はボルクスワゴンのセダンの小さいタクシーに乗ってコヨアカンに着く。

コヨアカンは、大学が近く、若者が集う、ちょっと文化的香りのする地域。ニューヨークでいったらグリニッチ・ビレッジといったら大げさだが、東京でいったらシンイチが学生時代すごした下北沢みたいな、若くて自由な雰囲気のあるところだった。

「(メヒコへ再びようこそ!ミ・アミーゴ)」
ラファエルとピラールが笑顔で迎えてくれる。
 
ラファエルはあいかわらず無精ひげにTシャツ・ジーンズ、ピラールはベージュのノースリーブのワンピースでシックにきめていた。ラファエルは2年前から同じ大学の博士課程にいて学生を続けているので、あんまり変化がない一方で、ピラールは去年から銀行勤務を始めている。

付き出しみたいにでてきたウズラのゆで卵を、マニキュアした爪に気をつけて剥きながら、ピラールがシンイチに聞く、「(今日はマリは来ないの?)」

殻をむいたウズラの卵に塩をかけて口に放り込みながら、シンイチが答える。「(今日から来るって連絡してあったんだけど、今のところ音信不通。今朝からずっとでかけているらしい)」

同じ様にウズラの卵をむきながらラファエルが言う。
「(シンの聖母様はなかなか手ごわいね。ディスコで発見してあげた手前、最大限の支援をおしまないけど、あれからもう2年か。おまえも、一途だよなあ)」
 
3人で食事を適当にシェアする、ウズラのグリル、ウズラをパイ生地のなかにいれて焼いた料理、ウズラをスライスしてソテーしたのにこってりしたソースがかかっている料理が届いた。

「(ポコ・ア・ポコ、少しづつ少しづつ、根気強く、グアダルーペの巡礼みたいだな)」とラファエルが言う。

シンイチがわからなかったという顔をすると、ピラールが説明してくれる。
「(シンイチは留学でいたときは12月は米国かどこかへ旅行していなかったんだっけ。グアダルーペのマリア様への巡礼はね、毎年12月12日にミサがあるんだけど、その2ヶ月くらい前から始まるの、そして12月にクライマックスになる。
信者はいろんな地方から寺院の近くまで遠路歩いてくると、寺院の前の広場にはいるあたりから跪(ひざまづ)いて、膝を地面につけてするようにして、少し少し前進していくの。
5センチ、10センチと、祈りを捧げながら、何時間もかけて。そして家族の病気が治るとかの奇跡が起こることを祈るの。TV中継でその様子を毎年流している。ほんとに少しづつしか進まないの。それで口の悪いメキシコ人は、遅々として進まない願い事をそれに例えたりする)」
 
シンイチは苦笑するが、ウズラのグリルをほうばって言う。
「(このウズラ美味いな。ここでしか食えない味。麻里との関係も、留学最後の2ヶ月のときと比べて去年から前進はしてるよ。文通も続けてる。嫌われてはいない。今年もいろいろ考えて、自分の気持ちを整理して飛んできた。まあ、君らにも会えるし、飯も美味いし、この僕の巡礼の旅、そんなに悪くない)」
 
食事の後、オスタルに戻ると、ホアキンに代わってフロント番をしていたセニョーラが笑って部屋の鍵とメッセージの紙切れを渡してくれる。
かなり読みにくい手書きのスペイン語で、「麻里から電話があって、明日朝7時にインスルヘンテス通りのVIPSで朝ごはん」と書いてある。
 
VIPSか、懐かしいな。VIPSはメキシコ発祥のチェーン店のファミレス。朝飯の卵料理とか、なんでもないメニューが案外美味しい。インスルヘンテスの店には麻里と何回か行ったことがあった。 

(続く) 全15話




 

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