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命は、しつこく、はかない

割引あり

私たちの命は、どこまでもしつこく生き残ろうとしてしがみつく一方で、今このときにも終わるかもしれないはかなさも持ち合わせている。

基本、命はもらいものであり、いまもまだ生きているとすれば、それは運がよかっただけのことであると受け止めた方がよいと私は思う。

人の本来の暮らし方であった狩猟採集生活では、肉体と精神のタフさ、健康さが必要とされ、生活の中にさまざまな危険があり、ケガや病気も文明社会に比べてより重大な影響を与えることになった。しかし、そんな危険の中で生きるからこそ、人々の暮らしは他の動物たちと同じように軽やかであったはずである。カラハリ砂漠の狩猟採集民(グウィ)の生き方を見れば、ある程度自由に居場所や行動を共にする相手を変えることのできる状態が、重い心を軽くしていてくれたことは間違いない。

けれど、人の暮らしは、時代が進むほどに、すっかりそんな命のあり方とは相いれないものになってしまった。

自分ではどうにもならないことの多い環境で狩猟採集者たちが「どうにかなるさ」と開き直るのとは違い、私たちは努力でどうにかできることも増えて、人生設計を立て、資産運用を計画し、衛生や健康に気を配る。できる限りの医療を受けることができるように備え、命にしがみつき続けることばかりを意識するような暮らし方になってしまっている。そのうえ、教育やマスコミもまた、命は大切であり、かけがえのないものであると主張して、命を人質に私たちに負担を無理強いしてくるのである。

今の人が生きる環境は、狩猟採集社会であれば、この世に執念を残しながらもこの世を去るしかなかった命が助かることが多くなった環境でもある。私は、そうして不自然に助かった命はしかし、感謝よりも、恨みつらみや憎しみを生みやすいと思う。

私自身は大きなケガや病気をした経験はないのだが、もっと未開の世界に生きたならば、うっかりして大きなケガをしたり、体力や免疫力の弱さから寝込んだりして、成人する前に死んでいたのではないかと思う。私は体を巧みに使うことは苦手で、冬の寒さに対しても兄弟と比べて弱かったからである。それでも今も生きてはいるが、今にして思えば、運動能力の低さというものが私に大きく悪影響を与えていたようである。私が、批判精神の強い性質を手に入れたのは、もともとの性格もあるだろうが、仲間の遊びに加わって楽しむことのできなかった子どもの頃の経験のせいでもあるだろう。本来なら死ぬはずの命が助かることには、このような私の体験ににたマイナスの面があると私には思えるのである。

私ももちろん私の命にしがみつく。しかし、そのときが来て、なすすべもなければ、死んでいくしかない。なすすべのなかった世界のほうが、本来であるし、幸せだったのだろうと私には思えてしまう。


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