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『誰のせいでもない』を観て ~幸が不幸を生み、不幸が幸を生み~

◇ みんな悪くて、みんな悪くない ◇
 

確かに、誰のせいでもないとしか言いようのない不幸というものはある。
と言うより、誰のせいでもないと言わざるを得ないのは、決定的な加害者がいない事件だからでもある。
そして決定的な加害者がいない分、逆に複数の関係者に罪が分散されている場合も多い。
これはこれでやっかいだ。
「Aが悪い」と責めたばかりに「その理屈で言うなら、Bにだって責任はある」となり「Bに責任があるというけれど、そもそもCがあんなことをしなければ」という具合になりかねず、罪の所在が事件の因果を辿って転々とし始めるから。
ゆえに関係者それぞれが、自分を守るためにも無駄に責め合わず、最終的に「誰のせいでもない」という形に収める流れにもなる。

本作『誰のせいでもない』で起こった悲劇にも、複数の要因がある。
ここで起こったのは、小さな男の子が交通事故で死亡するという事件。
見通しの悪い田舎の雪道を車で走っていたトマスの前に、いきなり幼い子供が乗ったソリが飛び出してくる。
トマスは急ブレーキをかけ、かろうじて幼い少年を跳ね飛ばさずに済んだ……かに見えた。
しかし、助かったのはクリストファーという少年一人だけ。
実はもう一人、彼と一緒に遊んでいた弟のニコラスもその場にいたのである。
つまり、死角になる場所でニコラスは死んでしまっていたのだ。
この事件の被害者は、当然ニコラスである。
そして、交通事故としての加害者はトマスだ。
ゆえに、ニコラスの母のケイトとしては、直近トマスを恨みたい気持ちが吹き出すだろう。
きっと激怒するに違いない!
……と思ったのだが、「そもそも」という因果を辿れば、幼い子供を二人だけで外で遊ばせていた母親としての責任は?ということが問われかねないせいか、ケイトがトマスに怒りをストレートにぶつけるシーンは描かれていない。

一方トマスはと言えば、それは間違いなく自分を責める気持ちで一杯である。
しかしだ。
そんな罪悪感に満ち満ちた心の片隅で、ほんの少しでも、事故を起こす直前にしつこくかかってきていた恋人からの「ウザい電話」の件、考えなかったか?と問えば「否」とキッパリ言い切ることは出来ないのではないかと思う。

基本、トマスと恋人のサラはうまくいっていなかった。
とは言え、ニコラスの死を知る直前にかかってきたサラからの電話には、「イラついてごめん。これからは変わるよ。もうすぐ帰るね」みたいな、優しく労るトーンで応じている。
しかし、ニコラスの死が発覚した後のサラへの態度は一変。
とりつく島もないといったような拒絶モードで「もう終わりだ」の一点張り。
「お前の電話のせいで事故った」とまでは言わないまでも、サラに対する過剰にヒステリックな態度には、「もしあの時電話が鳴らなかったら、注意力が散漫になることもなく、事故は防げたかもしれない」という思いも混じっているように見えた。

そして忘れてはならないのが、兄のクリストファー少年。
さすがに幼い彼を責めるような大人はいない。
しかし、いくら幼くとも彼はニコラスの兄だ。
さらに状況から言えば、一緒に遊んでいた弟を危険にさらした一人でもある。
第三者は誰も責めないだろうが、彼自身、いつか大人になってから、弟を守れなかった自分を責める時が来るかもしれない。

と、ここまで書いてなんだけれど、この『誰のせいでもない』というのはあくまでも邦題である。
ゆえにここまでの考察は、単に邦題に引きずられただけであり、サブ的に炙り出されたテーマであることを一応記しておく。

ちなみに、原題は『Every Thing Will Be Fine』である。
「だいじょぶ、だいじょぶ、なんとかなるって」的な、何かヤバい事態に陥ってしまった人への慰めとして使われる言葉らしい。
単なる気休めみたいなもの。
まあ、邦題の『誰のせいでもない』もまた、当事者からすれば気休めに過ぎない言葉だろう。
いずれにせよそれらは、言った方にも言われた方にも空虚に響くことに違いはない。


◇ 幸と不幸と 不幸と幸と ◇

あらゆる芸術において、悲劇や不幸といった闇の部分は、多かれ少なかれ必要不可欠な要素(材料)だと思う。
逆に闇の要素を一切排除した上で、人の心を揺さぶるような奥行きある作品を仕上げることは、不可能に近い気もする。

やはり光を際立たせるためにも闇は必要なのであり、もともと明るいところに光を当てても、その輝きは目立たない。
あるいは、不幸や障害を克服するというプロセスあってこそ、その後につかむ成功に感動するのであり、最初からあらゆる面において恵まれている人が、そのまま苦労無く成功する物語を聞かされたって「ふーん」としか言いようがない。

ゆえに、古典芸術であれ、最新エンターテイメントであれ、たとえどのようなテイストで描かれた作品であったとしても、闇としての悲劇や不幸という薬味は欠かせない。

この映画は、そんな「芸術」と「悲劇」の皮肉な関係性が描かれている。
個人的には、そこが鋭く心に刺さったし、映画としての秀逸さを強く感じた部分でもある。

映画冒頭の小説家トマスは、絶賛スランプなうの状態だった。
悲劇の事故が起きる前から、実にうじゃじゃけた表情で創作の苦しみにもがいていた彼。
そんな折の人身事故、そして恋人との破局。
バタバタと試練が襲い、罪悪感と孤独と創作の苦しみにギュウギュウに締め上げられてしまったトマスは、ある日遂に自殺を図ってしまう。
が、結局それは未遂に終わり、迎えに来てくれた例の元カノ、サラとなぜか元サヤに。

トマスはサラに言われてしまう。

「やるなら本気でやれば?」

なるほど、死ぬ気なんかなかったことが完全にバレている。
さらに父親までこんな一言を。

「自殺未遂なんて、芸術家気取りか!」

そうなのだ。確かにトマスというこのとんだお騒がせ野郎は、ずーーっと「俺って繊細だからさ~」みたいな辛気くさいムードを振りまき続けてきたのである。
だからと言っては何だが、トマスに不幸が降りかかったことは、必ずしもアンラッキーとはならなかった。
むしろ、不慮の事故の加害者という立場からの自殺未遂を経て、より明確に己のキャラを確立してしまったのである。
作家と罪を背負ったメンヘラという抜群のマリアージュが功を奏して、あら不思議。
筆が進む、進む、進む。
「作家にとっては、すべてが創造の素となる」との担当編集者のありがたーい言葉にも背中を押され、トマスは意欲的に執筆に臨むのだ。
やがて、満足のいく出来映えの新刊を発表。
評判も上々で、すっかり彼は売れっ子に返り咲いた。

だがそうなってみると、あれ?おかしい、俺の人生、順調?もしかして、幸福?
柄にもなくハッピームードに包まれかけたトマスは、こんなことではいけないとばかりに、なんとわざわざ自分が命を奪ってしまったニコラス少年の家に出向くのである。

◇「苦悩する文豪スタイル」でやらしてもらってます ◇


あの事故から、すでに二年の年月が流れている。
その土地にはまだ、クリストファー少年とつましく暮らす、母親のケイトの姿があった。
自分が不幸にしてしまったかもしれない家族の姿を目の当たりにして、再び険しい顔で苦悩の人に戻るトマス。
信心深いケイトに「あなたのことは恨んでいないわ。私はあなたの幸福も祈っていたの」みたいな慈悲深いお言葉を頂戴し、トマスは余計に顔を歪ませる。
そして、「償いがしたい。何でもする」かなんか言って、連絡先を渡して去るトマス。
そんな「苦悩する文豪スタイル」感が、やっぱり逆にドヤッてるように見えて仕方が無いのは、私だけだろうか。

どうしても私には、病める時も健やかなる時も、いつだって彼は「作家」という肩書きありきで行動しているように見えて仕方がない。

トマスは、その都度、その時の創作に必要な「何か」を補い、または、不必要な「何か」を捨てながら、作家である自分を維持し続けているのだ。
不幸に浸り、そして、書く。
不幸感が薄れてきたら、わざわざ不幸に触れに行って、そこにインスピレーションを得る。
きっと今までも、その繰り返しだったのではないか。
だが、その行為が意図的なのかと言えば、それは違うのかもしれない。
あくまでも無意識の行動であり、本人はいたってドラマティックな運命に翻弄されているだけだと思い込んでいる可能性もある。

ただ状況の変化によって、このパターンも少しずつ変っていくのだった。


◇「余裕の巨匠スタイル」でやらしてもらってます ◇


あの悲劇から2年後、4年後、4年後……と、着々と作家のキャリアを積むトマス。そして、トータルで事故後11年目が、この映画のラストとなる。

彼はその頃になると、サラとは別れ、子持ちの女性と再婚していた。
かつては、「本さえ書ければいい!子供なんていらん!」などと頑固に言い張ってサラを泣かせていたくせに、いつのまにかしれっと一児のパパに。

あれ?「苦悩する文豪スタイル」はどこいった?

むしろ今は、成功者然としながら、愛する家族と大豪邸に暮らす「余裕の巨匠スタイル」といった感じ。
正反対ではないか。
確かに不幸は名作の種になりやすい。
しかしもともと才能がある人間なら、ある程経験を積んで技術を磨けば、不幸と距離を置きながらも作品が書けるようになるのかもしれない。
つまり時を経てトマスは、あえてリアルで不幸に浸らずとも、想像力とテクニックだけで十分重厚な作品が生み出せるようになっていたということだろう。

「いい気なものね!」と、偶然再会したサラにトマスがビンタを食らうシーンがある。
彼自身は「何で?」と、鳩が豆鉄砲食らったような顔で驚いていたが、いやいや、そりゃそうだろう。

何でそんな幸せそうな顔をしているのだ?

サラという女性は、運悪くトマスの苦悩期に付き合わされ、振り回され、ボロボロにされた一人だ。
充実期に入ってすっかり幸福を満喫しているトマスを見て、むかっ腹立つのは当たり前。

そして、11年目の最大の充実期に再び登場するのが、あのクリストファー少年だ。
16歳になったクリストファーは、自分も作家志望であると手紙に書き、トマスに会いたいと申し出てくる。
しかし、その申し出をトマスは拒む。
かつては「償いがしたい。何でもする」などと、涙を浮かべて言ってたくせに。
しかし前述の通り、この頃のトマス先生は、かつての「苦悩する文豪スタイル」とは真逆の「余裕の巨匠スタイル」で営業中だ。
だから、ぶっちゃけクリストファーになぞ会いたくないのである。
せっかく築き上げた絵に描いたかのごとき幸福に、今更過去から水をさされるのなんて御免被りたいというのが本音であろう。

結局、母親のケイトに「何でクリストファーに会ってくれないわけ?何でもするって言ってたよね?」と当然のご指摘を受け、しぶしぶ会うはめに。

予測通り、トマスにとってその会見は少々苦々しいものとなる。
再会したクリストファーは、トマスにこんなことを言うのだ。

「不公平だ!あなたは成功している。母とは大違いだ」

トマスはそれに対して、かつての苦悩する文豪の顔を急遽取り戻し、深い眼差しを意識しながら呟く。

「どん底まで落ちて、俺は乗り越えたんだ……」

しかし、母と共に癒えぬ傷を抱え続けてきたクリストファーには、そんな小手先のスタイルなんぞ通用しない。
そして、決定的なことをズバッと言い放つ。

「事故前の作品は出来が悪い」

図星。
トマス、またも見透かされているではないか。
クリストファーは、さすが作家志望だけあるね。
鋭い。
それにしても、トマスが経験したあの悲劇的な事故こそが、彼を作家としての成功へと導いたという皮肉な真実を、被害者遺族の方から告げられるとは。これは痛いところを突かれたものだ。
そりゃ、トマス先生も言葉に詰まる。
きっと彼自身、それはとっくに自覚済みだったろう。
ただその一方で、それは決して認めたくない真実でもあったはずだ。

悲劇を、不幸を、闇を肥やしにして、深みや広がりや感動が増していくというこの「芸術」なるものは、考えてみればなかなか悩ましいものである。

では、罪を背負うという不幸を燃料にして、結果的に大きな成功を手にしてしまったトマスに罪はあるのか?と言えば、罪は無い。
しかし、罪のないトマスの幸福を羨み憎むクリストファーにも罪は無い。

つまりこの映画は、結局、誰のせいでもないというお話なのだった。

(END)

『誰のせいでもない』( 原題:Every Thing Will Be Fine )
2015年/118分/ドイツ カナダ フランス スウェーデン ノルウェー
監督:ヴィム・ヴェンダース
脚本:ビョルン・オラフ・ヨハンセン
出演:ジェームズ・フランコ シャルロット・ゲンズブール レイチェル・マクアダムス

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