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『フレンチアルプスで起きたこと』を観て ~積み上げた理想が「雪崩」を起こすとき~

◇「立場」を守るためには ◇

たとえ自分自身がそれをしたいと心の底から望んでいなくても、今の立場を守るために「しておいた方がいいこと」というものは、その時どきで存在する。
そしてそれをしておけば、とりあえずメンツも保てるし、周囲も納得してくれて不平不満が出ることもない。
ならば多少面倒でも、しないことで発生するリスクを考えればしておいた方が良いだろう。
そうやって多くの人は、常日頃から心の中にあるスタビライザー的なものでバランスを測りながら行動し、自分の身を守っているのではないだろうか。

立場なんてほぼ皆無に近い私だって、「大人として」とか「人として」とか、もはや立場とも呼べないようなざっくりした立ち位置から、体裁を整えるためにやりたくもないことをやったりする。
「自分は自分らしく、好きなように生きる」という境地まで振り切れている人は、素直に素敵だと思うし、憧れもする。
だけど人間、一ミリでも孤独を恐れる気持ちがあればなかなかそうはいかない。

そして、己の役割を自覚し、その立場を守り、平均的なラインを決して下回ることなく平和な状態をキープすることがもっとも重要な分野とは、これ「家族」というコミュニティにおいてなのではないかと思う。
私、コロナ禍に見舞われる前の二年ほどは、リゾート地でのアルバイトをしながら様々な地を転々とした。
そのため「家族」という共同体を外側から眺める機会がとにかく多かった。その結果、上記のような考えを抱くに至ったのである。

◇「家族」という共同体の中で ◇

『フレンチアルプスで起きたこと』にも、フレンチアルプスのリゾート地でバカンスを楽しむ一家が登場する。
三十代の父と母、そして小学生と思われる姉と弟の二人の子供。
つまり、先進国中流クラスの極めて平均的な四人家族の構成である。
スウェーデンから来た家族ではあるが、国を問わず、この普通の家族という団体が醸し出す雰囲気は、自分が見てきた日本の家族とあまり変わらない。

つまり以下のような雰囲気である。

夫トマスは、常に家族の顔色をうかがっているように見える。
と言っても、卑屈な感じではない。
むしろ「俺って、夫としても父親としてもまずまず立派でしょ?どうよ、この経済力。休暇に家族でフランスにバカンスなんて、なかなか贅沢させてるじゃない。みんな、スキー、楽しいよね?」とでも言いたげな薄らドヤ顔。肯定されていることを逐一確認しているという意味での顔色うかがいだ。
決して、心底スキーや家族の団らんを楽しんでいるわけではない。
しかし、自分の選択、行動にはそれなりの自信と満足感を得ている様子。
つまり彼にとっては、バカンスを楽しむよりもそっちが何より大事なのだ。

妻エバの方も、自分で幸せな家族を築き、女として平均以上の幸せをつかんでいるということを確認するように、スキー場で撮ってもらった家族写真をうっとりと満足げに眺める。
「うん、やっぱり、あたしの人生、正解」と言わんばかりに。

二人の子供達はと言えば、両親よりもう少し自分にも他人にも正直だ。
おそらく、生まれた時からそこそこ豊かな生活をしてきたのだろう。
ゆえに、家族旅行程度で殊更はしゃぎはしないといった感じ。
もちろん楽しくないわけではないのだろうが、しかしそこまで特別な時間を過ごしているという実感もない。
だから、テンションは低めでキープ。
もしかしたら「子供のために家族サービスをしてあげているのだ」という父親の自己満足のために、子供達の方が「つきあってやってる」という感覚なのかもしれない。

つまり全員が無意識の内に、この家族という塊を、一般的「幸せボーダーライン」より少し上の位置に保つために協力し合っているわけだ。
あくまでもバカンスとは、家族という共同体を素敵に保つためのツールであり、それそのものを楽しむというより、「バカンスを楽しむために家族揃ってフランスを訪れた幸せな一家の一員」である自分のステータスを楽しんでいるという雰囲気。

それはあまりに穿った見方ではないか?
独り者の僻みか?
なんて思われても仕方ないが、しかし実際私は、リゾート地でこんな空気感の家族をたくさん見てきた。
むしろ、こういう雰囲気が家族旅行のスタンダードであり、ある意味「健全」な姿なのじゃないかとすら思う。

だから、このようなコミュニケーションを決して否定的に見ているわけではない。
皆それぞれの立場で自分の家族が楽しんでいるところを確認し、さらに自分のおかげで楽しんでくれている家族を見て自分の存在意義を確認し、その上で人生の充実度を測り、安心しているのだろう。
それはそれで、お互いにとって決して悪いことではない。

先にも述べたが、とにかく人間、孤独になりたくなければ、どんな立場であれ常にこのような心がけは必須なのだ。

だがしかし、一人一人のたゆまぬ努力によって「平均を少し上回るくらいの家庭の幸福」というものをせっかく維持継続させているこの優秀な一家に、ある一つの悲劇が降りかかる。

最初は、ちょっとしたハプニング程度の些細な出来事であったはずなのに、このフレンチアルプスで起きたことは、小さな綻びから裂け目が広がっていくように、じわじわと家族の絆をむしばんでいくのだった。

◇ 積み上げた理想が「雪崩」を起こすとき ◇

その事件は、一家がテラスにて食事をしていた際に起こった。
この地では、雪山で大きな雪崩が起こらないよう、あらかじめ人為的に小さな雪崩を起こしてそれを防ぐということを定期的に行っている。
その時も、人工雪崩は起こった。
しかし、人工にしちゃインパクトがデカい。
雪煙と衝撃音がテラス席にどんどん迫ってきて「えっ?これってマジのやつじゃん!ヤバくない?」って思った人々が、悲鳴をあげながら逃げ出し始める。

もう万事休す!と思ったその時、一家の長トマスは、何と自分だけスマホ持って家族置いて、一目散に逃げちゃった。
一方の妻のエバは、さすが母親である。自分がしっかり楯となり、二人の子に覆い被さりながら雪崩が行き過ぎるのを待った。

結局、雪崩に関しては事なきを得て雪煙も次第におさまっていった。
その頃になって、ようやくトマスは、しれっと家族のもとへ戻って来る。
彼は、自分が家族をほっぽって逃げ出したってことに気づかれていないと思っているから、その件には一切触れない。
そして「大丈夫か?」なんて心配する様子を見せながら、再び父として夫としての立場に素早く戻る。

しかし妻および子供達は、トマスの裏切り行為を決して見逃さなかったし、忘れもしなかった。
つまりその一点において、この人工雪崩事件は、家族崩壊というもう一つの雪崩を勃発させたのである。

人工雪崩事件直後、エバと子供達はトマスに対して無言の抗議を始める。
その様子に、トマスも動揺を隠せない。
なんとかこのままうやむやにならないかと、必死で平静を装う大の大人の姿が痛々しい。

一方のエバも、トマスがしでかしたことを明確に責めてしまうと、何か取り返しのつかないことになりそうなので、最初は出来るだけ我慢して何ごともなかったかのように過ごそうとする。
だが心の内では、モヤモヤは広がるばかり。
せめて「トマスの方から素直に謝ってくれたらな」とか思っており、時折その一件についてさり気なく突っついてみたりもするのだが、トマスはまったく非を認めようとはしない。
それどころか「認識の違い」という苦しまぎれの逆ギレ。

そんな言葉のすれ違い、心のすれ違いがしばらく続いた後、エバの堪忍袋の緒はとうとうキレて、友人カップルに夫の失態の一部始終をぶちまけてしまう。
スマホに残っていた証拠映像まで公開して。
そこまでされて、トマスのメンタルにも遂に限界。
ギリギリ保っていた自尊心、自負心は一気に決壊。
挙げ句の果てに、これ以上ないという位にみっともなくマジの大泣き。
まったく尊厳の欠片すら見当たらない父親の幼児退行というおぞましい惨状に、子供達までもが大パニック、大号泣。
嫁、完全にお手上げ。
実に無残なまでの家族の大雪崩である。
痛すぎて見ていられない。

ヴィヴァルディの『夏』が、なんとも効果的に騒動の合間に挿入される。ものすごい勢いで何かに責め立てられるような、非常に緊迫感のあるこの曲。この曲がかかるたびに、「ああ、もうやめてあげて~」とトマスに少し同情してしまうのだ。

◇ 問題は、逃げたという事実から逃げたこと ◇

ただ私は、そもそもの問題の元となった、事件現場から「逃げる」「逃げない」については、実は結構どうでもいいと思っている。
だって咄嗟のことなんだから、仕方ないじゃん、というのが、ぶっちゃけ素直な感想。
「どんな不測の事態が起ころうとも、自分は必ず正しい判断が出来る」と自信を持って言い切れる人間などどれ位いるものか。
潜在意識の中にどんなトラウマが隠れているかもわからないんだから、私だって心底怖い目に遭ったら周囲を気遣っていられないかもしれない。

また、瞬時に子供をかばえるか否かは、性別によっても変わってくる。
つまり女性の方が、遺伝子レベルで危険時に子供を優先する可能性が高いということだ。

それよりもトマスの犯した最大の罪は、その後の態度にあると強く思う。
咄嗟の危険から自分だけ逃げ出してしまったことまでは「しゃーない」で許せても、逃げたという事実から見苦しく逃げまくったことは、情けないし、格好悪すぎる。

ではトマスは、なぜこうまでみっともなく事実を認めようとしなかったのか?
ここで、再び「立場」の問題に戻る。
つまりこのトマスは、ここまでいい感じに築き上げた父として、夫としての立場を何が何でも崩されたくなかったのだ。

しかし、その判断は明らかに逆効果。

確かに「俺、逃げちゃった。テヘペロ」と認めてしまったら、一時的にトマスの株は大暴落するだろう。
だが一言も言い訳せずに、潔く全力で平謝りしたら、一周回って「もう、パパったらひど~い!笑」ってな調子で、早々に笑い話になっていたかもしれない。
少なくとも、こんなに深刻な問題には発展していなかったはずだ。

にも関わらずこのトマスは、プライド、自尊心、自負心といったものがみっしり詰まった「立場」という宝箱を両手に抱えたまま、子供みたいにイヤイヤをしてどうしても手放そうとしなかったのだ。
万が一にでも手放してしまうと、もう自分が自分でいられなくなるような強迫観念があったのだろう。
しかしその思い込みは、大変危険。
場合によっては、そんなものさっさと手放した方が、かえって失うものは少なくて済む。
単なる表面的な立場というものを、アイデンティティとイコールにしてはいけない。
そのあたり、あまり挫折を味わったことのない、比較的順調な人生を送ってきたエリートが犯しがちな判断ミスでもあるのかもしれない。

とはいえ、妻のエバにだって罪はある。
夫に失望する気持ちはわかるが、結局全員無事だったのだから、まずはそのことに深く安堵し幸せを感じるべきだろう。
本当に家族思いの女性だと言うならば。
なのに逃げ出した夫の姿を見て、まるで世界の終わりでも来たかの如く深刻に悩む。
最終的にこの問題をかの大惨事にまで発展させてしまったのは、むしろ彼女の方に原因があったと言えなくもない。
彼女こそ、己の立場や理想というものに強く固執し過ぎていると私は感じた。
とにかく彼女にとって何がショックだったかって、それは、理想だったはずの夫があまりにも「思ってたのと違う」ってとこだろう。

家族に危機が訪れたら、真っ先に自分を犠牲にして愛する者を守り抜くという人材が、彼女の夫であるべきだし、彼女の子供達の父親であるべきだったのだ。

その観点から見れば、トマスは完璧に不合格。
きっとエバの頭の中には、「~はこうあるべき」というチェック項目が100個くらいメモされているはず。「夫とは~であるべき」「結婚とは~であるべき」に続き、「家庭とは」「親子とは」「夫婦とは」「女の人生とは」「幸せとは」「父とは」「母とは」云々と。
そして、常日頃そのチェック項目に1個ずつ✓を入れて確認し、全項目埋まってようやく「幸せな女」の出来上がり。

エバは、トマスに対してもさることながら、女友達の素行に対しても容赦なくディスる。
この女友達は、夫も子もありながら今なお複数の男性と恋愛を楽しんでいるのだ。
そんな奔放な生き方は、エバからすれば、「妻として」「母として」「女として」確実にあり得ない。
にも関わらず、その女友達ったら「別にいいじゃん」という軽快さ。
悪びれる様子など一切ないので、震えるほど「許せない」ってなっちゃう。
あの不自然な位の糾弾ぶりって、すでに「羨ましいのバレバレ」のやつではないか。
エバだって、一旦「立場」を脱ぎ去ってしまえば、家庭第一の良妻賢母でなんかいられないことを無意識では知っているのかもしれない。

◇ それでも受け入れるのが「愛」なのかも ◇

共同体の中の平和を守るには、それぞれ自分の立場を理解し、各役割に応じて「一般論的に理想とされる行動」をとることが大事になってくるとは先にも述べた。
少なくとも家族というコミュニティを平和な形で持続させていくにはそれが重要であり、外側から見て「幸せそうな家族」に見える一家は、多かれ少なかれそういう努力をしていると思う。
がしかし、万が一その理想から外れる行為を自分や他者がやらかしてしまった時、理想や立場に固執し過ぎるのは絶対に良くない。

もし自分が、共同体の中で他者の期待を裏切ってしまったら?

その時は、ばつが悪くても素直にその事実を認め、もし申し訳ないという気持ちがあるならすぐに謝るべし。
たとえ悪いと思っていなくても、とにかく事実を認めないのはナンセンス。嘘やごまかしといった悪あがきは、開き直るより、最終的に自分自身を不利な立場に追いやることになる。

逆に他者が、(悪気なく)私を失望させるような裏切り行為をした場合は?

その時は、相手を責めたくなる自分を顧みて、どうして責める気持ちが起きるのかをよく確認すべし。
もしその理由が、自分の理想を壊されたことへの怒りであるなら、相手を責める前にその理想の方を捨ててしまおう。
他者は、(たとえ家族であろうと)私の理想を叶えるために存在しているわけではない。

以上の教訓を、私はこの映画から得た。

――と共に、理想じゃなくても受け入れられて、理想じゃなくても受け入れてくれるという関係の中にだけ、一種幻めいた「愛」なるものが生まれるのではないかとも思った次第である。

(END)

『フレンチアルプスで起きたこと』( 英題:force majeure )
2014年/120分/スウェーデン デンマーク フランス ノルウェー
監督:リューベン・オストルンド
脚本:リューベン・オストルンド
出演:クリストファー・ヒヴュ リーサ・ローヴェン・コングスリ


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