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一燈照隅〜身のうちに燻り続けていた燈〜【二】

私が信じてきたもの

私が、これまで人と関わる中で
一等いっとう不愉快だったのは、
「優劣争い」です。
もしくは“一般的に”良しとされる何かを
考えもなしに称賛する「画一化」です。

ガワだけ取り繕ったごまかしや、権謀術数けんぼうじゅっすう
自分が今いる役割から遊離した中身のない小手先の猿真似、
一面だけを見た勝手な嫉妬、それに伴う批評と、屁理屈じみた口出し、
安易に立場を成り代わろうと画策する狐狸こりたぐい
生まれるからです。



私には、今でも信じている言葉があります。

ふしぎな性質·性能をあらゆる物が持っておる。
いわんや万物の霊長たる人間においてをやで、
人と生まれた以上、本当に自分を究尽し、修練すれば、
何十億も人間がおろうが人相がみな違っておるように、
他人にない性能と能力を必ず持っておる。
それをうまく開発すれば、
誰でもそれを発揮することができる。
             

安岡正篤『活眼活学』

そうであってくれ、と信じています。

人にはそれぞれ歴史があって、
その時々の場面で他者からどう判断されようが、
生きていくために身につけた生存戦略がある。
自分自身にも把握しきれない、先人たちによってつくられた身体がある。
生きていく中で発生した役割を、その人の仕方で果たしてきた実績がある。

だから、自分のことを等閑なおざりにして
誰かがどうこうと人のことをとやかく言う人を見ると
不愉快になりました。

人のこととやかく言えるほどお前はご立派かよ
自分のことに集中しろや、
くだらんこと聞かすのにあたしの時間を使わせるんじゃねえよ

みたいなことが反射的に胸の内に浮かびました。

今になってこういうことに言及している私自身も、
人に惑わされて自分のことに集中できていないのかもしれません。

ただ、今までこの“自分に集中”理論を自分に適用して、
聞かされた時に感じた不快感を「そんなことより自分がしっかりしろ」
と抑圧した結果、鬱憤が溜まって、全てが水に流れた後に
誰に対してでもない怒りがこびりついている状態になったので
思ったことは思った時に、思った相手に伝えるのが
一番精神衛生上よろしいんだろうと思います。

自分を表現して「ちゃんと嫌われる」ことも大事


本来、人間に優劣はない。
競争とか画一化とか糞食らえ。
「みんなと一緒」で安心してんじゃねえよ。

自分自身にこういう価値観があることを自覚してから、
「確かにそうだな」と思う一つの考え方に巡り合いました。

それは、

「本当の自分の形」をしっかりと示す

発言者はshinoさんという画家の方でした。

というもの。

若干意訳を含んでいるかもしれませんが、要約すると、

私たちはそれぞれ、固有の振動数をもってる。
そして、集合意識は「パズル」のような構造をしている。

一人一人がパズルピースであり、本来自分がはまるべきところにはまる。
自分がパズルピースであることが分かれば、
全員に受け入れられるというのが、「仕組み」としてあり得ない
ことが分かる。

次に、
人間であれ、何であれ、「偽物」にはチカラがない。
「本当の自分」でなければチカラは出ない

本当の自分を示して、相手にガッカリされたり、嫌われたりした場合、
それは自分だけでなく相手にとっても「自分の形」を知るきっかけとなる。
「本当の自分」を示して嫌われるのなら、ちゃんと嫌われないといけない。
集合意識全体のパズルの完成のためには、
相手に合うフリをすること自体が双方にとってマイナスとなる

人間関係の中で、
嫌われたりガッカリされたり、期待外れと言われたりするのは
自分のピースが収まる場所を探している段階だから。
それを手掛かりに、収まるべき場所を見つけられる。
そして、本当の自分で生きるなら、
必ず、自分のピースに合う人間、事柄が訪れる。

といった具合です。
私自身にも、思い当たることがありました。

自分が全身を使って努力するには、自分のテリトリーを深めることでないとだめだ。そうでないと、いくら努力をしているつもりでも、
「〇〇さんたちはこう言うのが好きなんでしょ」と言う他人事から出発した発想に拠るので、どうしても小手先から抜け出せないままになる
…と、今の職場で働いていて、なんとなく感じ取った。

2017年7月18日の日記メモ

→ 自分の人生を深掘りして見えてきたもの


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