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おら東京さ行って「論語を楽し」んできただ

7月29日、池上實相寺さんで行われている
安田登先生の「論語を楽しむ」連続講座にお伺いしてきました。
気づいた頃には2回目で、とりあえず飛びついた感じです。


寺子屋「池上實相寺」

安田先生曰く、
孔子が「知」を定義してから幾星霜、
いま、この「知」はchatGTPなどのAIに取って代わられようとしている。
しかし、人間には、AIにはない、
「疲弊と忘却」という機能がある。

こうして講座で聴いた内容も、
1時間半ぶっ通しでの受講と、その後の数時間にわたる移動を経ると
どうしても多くの情報を取り落としていく。

そうした時、
人間はそれ以前に内側に蓄え醸成させていたものを動員して
その話を盛りだすんだそうです。

ということで、
一晩寝かせてすっかり盛られた
私の「論語を楽しむ」講座を
こちらにアウトプットしていこうと思います。

温故(而)知新

「知」という言葉は、
論語では、「テーマ」と言えるくらい
たくさん取り上げられているけれども
孔子の時代には発掘されていないんだそうです。
「知」という言葉を作ったのは、孔子ではないか、というお話でした。

温故知新は、

温=自分の内側で温めてぐつぐつ煮込んで醸成させている状態

古い知見を自分の内側で温め続けたとき、
突如ブレイクスルーが起こり新しい知が現れる

ということで、

その温め続けている時にも
見えないところではちゃんと変動が起こっていて
ただ、可視化できないだけなんですって。

だから、その内側の変動を信じて、
いかに待てるか…ということです。

私もいま、
いろんな記憶との出会いを繰り返して、
自分の中で醸成が行われているんだと思います。

この宙ぶらりんを耐える。
ネガティブ・ケイパビリティである。

切磋琢磨

子貢曰く
「貧しくして諂うこと無く、富みて驕ること無きは、如何」
(貧しくても権力にへつらわず、富を得ても驕らない、というのはどうでしょう)

子曰く、
「可なり。未だ貧しくして道を楽しみ、富みて礼を好む者には若かざるなり」
(それもまあいいが、貧しても道を楽しみ、富んでも好んで礼を尽くす人には及ばない)

子貢曰く、
「詩に云う、切するが如く磋するが如く、琢するが如く磨するが如しとは、其れ斯れを謂うか」と。
(ああ、これが切磋琢磨なんですね)

子曰く
「賜や、始めて与に詩を言うべきのみ。諸に往を告げて来を知る者なり」と。
(子貢わかってんじゃん。一を聞いて二を知ることができると、こういうやりとりができるんだよ)

論語 学而第一 第十五

「無(not)」=戒め。
動物的な放埒をしないという点ではまあ良いが、無理が起きやすい状態。

↑これに対して
「楽しみ、好む」ことができているということは、
当人の性質がちゃんと活かされている状態。

「切」るのは骨器
「磋」するのは象牙
「琢」するのは玉
「磨」するのは石

切磋琢磨は、現物(すでに出来上がっているもの)に手を加えるということ。
つまり、
一人ひとりに合うやり方を選ぶ必要があり、
道具を間違えればむしろ大惨事になる。

ただ我慢すればいいって話じゃ無いってことです(安直)。

和して同ぜず

「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」

論語 子路第十三

「和」と言うのは、
それぞれが思い思いに違うことを、一緒にしている状態(調和)

「同」と言うのは、
集まって全体一律で同じことを同じようにしている状態

なんですって。

聖徳太子の「和を以て貴しとなす」と言うのは

有士曰く「礼の用は和を貴しと為す」。

( 時と所を同じくする人たちが一人ひとりバラバラにいるのを
「礼」によって方向づける)

論語 学而第一 第十二

を参考にしてるんじゃないかと言うことなんですけど

中国の方では「和」のために
「礼」を用いると言っているのに、

日本ではただ「和」を尊んでいる。

そういや、
「いろんなものを受け入れる力が日本語にはある」
っていうことを高校生くらいの時に知って、
「日本すげえ」と興奮していたんですが、

神仏混合とか、明治期の四字熟語創造とか、
それぞれ違う物を受け入れてこそ、
一緒に混ぜて新しいものを生み出してるってことですよね。

それぞれの体感を大事にする在り方


便乗して白状すると、私も、
「人と同じことをする」のが嫌なんですけど、

この感覚って、
天邪鬼的な反抗心というよりも、

誰かに寄せて自分を消している間の人生が惜しくなった
と言うのが実感に近いです。

それに、組織全体を見た時、
みんなが同じ係やろうとしたら
まともに機能しなくなるのって想像に難くないじゃないですか。

人にはそれぞれ役割があるし、
元々備わってる性能があるんだから、
自分の中掘り進めて、自分の役割を特定することに
時間割いた方が、本人も安心できるし社会も機能するし
みんな幸せなんじゃないか…って
いう持論があります…。


三惜しみ(出し惜しみ、骨惜しみ、負け惜しみ)は
自分の能力の特定に悪影響なので、
極力しないように心がけていますが、

そこ(時間)は惜しんでいいんだと思います。
「寸陰」は惜しんだほうがいいものです。

三惜しみ  → 経験にまで昇華できないので、やったことも学びにならない。
寸陰を惜しむ→ 「得た学びを活かして同じ経験(学び)を繰り返さない」ということ

思い込みを補強するかんじがするので「改めて再確認した」はあまり言いたくない言葉です。


「みんな同じ」を求める人たち

小人(自分の利が先だって全体的なことにまで頭が回らない人)は、
自分の一時的な安心感(「みんなやってて無難そう」)を優先して
一人になることを避けるから、「同じ」を選びがちになる

という解釈をしてみます。

そういう人って、
人と違うことをしている人を見ると
自分の「これでいい」が揺らいで不安になるから
違うことしている人に
妙な干渉を入れてくるんだと思っています。

「私が不安になったじゃない、やめてよ!」
みたいな。

私は、自分の不安は自分で解消するものだと思っています。

解決方法は、
「(自分の)視点を変える」か「(自分の)行動を変える」か
「(自分の)すべきことに集中する」か。

なので、「人と違うことをしている」
という主旨の文句は聞き流すことにします。

…勤め人最後の職場で上司から言われた
「和を乱している」という言葉。

周りに気を遣い、
自分の役割を探して、
自分自身の言い訳を戒め、

「常時勉強」の心づもりで
ちゃんと働いているのかよくわからない人から
よくわからない文句を聴かされては

解決しようと小間使いのように働き
(自分以外の視点ということで
貴重な情報だと思ってたんです。
いらんことしたと反省しています。)

そうして現場の機能維持に
全力を尽くしている
つもりでいた私にとって、

けっこうショックな言葉だったのですが

2年くらいを経て、
何が起きていたかを理解することができたので
上司に言い返せる気がします。2年越しの反論です。

「あなたの日本語は間違っている。
 わたしは和を乱していたのではない。
 同を乱していたのだ」

…と。

????🙄????
なんかかっこわるいですね。

間の抜けた締めくくりになりますが、
言いたいこといっぱい言えてスッキリしました。

ご静聴、ありがとうございました。

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