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如実知自心〜ありのままの自分の心を知る〜【三】

命そのままで生きるとは、

「大欲」に身を任せて、無心に生きること

私は、幼少期に「自分の役割が欲しい」という渇望を育てました。
悪役おにもつではなく、主人公たいしたやつになりたかったからです。

そして、これまでの人生の中で、
「挑戦さえすれば、答えが見つかる」ことに味をしめ、
それを手がかりに自分の居場所を見つければ、
私は「自分の役割」を手に入れられる、と希望を抱きました。

私にとって、役割は「居場所」です。

誰にも奪われない「居場所」を欲して、
自分にしかできない仕事を求めました。

これは、我が身かわいさからくる保身かもしれません。
でも、

自分の特性を活かして社会の役に立ち、
周りと調和して進んでいける

特質を活かせる分野で、
自然な自分のままで活躍できる

そういう状態を目指すことは、
自分の周りに敗者を出さない、
周りにいる人を誰も不幸しない
唯一の方法だと信じています。


「無欲」の意味

自分の特性は、
ただ「やりたい」という“欲”から発現すると思っています。

私は、自分を啓発したいという「欲」を持った時、
重要でない、むしろ自分を停滞させている習慣からの脱却に
気を揉みました。

なぜ、自分の時間を無為に浪費するような習慣を
やめられないのか。

当時の私は、
この習慣こそ「欲」だ
と断じて捨てようとしたりもしたんですが、
後に「ホメオスタシス」という
脳の機能から起こっていることだと知りました。

今の自分の意識では「不都合」だと思える習慣も、
過去に、恒常的な状態と脳が認識するまで
私自身が欲していたことだったんですよね。

今現在の自分は、
自分が生きるために必要だと判断して選択してきたことで
できている
んだと気づきました。

であれば、「欲」は、生きるために必要なもの
だということです。

私が私淑している安岡先生の本を読むと、

「無心」というのは、無の心であって、心無しではない。
雑念がない、散乱心がない、遊離心がない
その状態を、無心という。

自前の読書メモ

と言ったことが書かれています。
無欲」という言葉も、
これに通じるところがあるのではないかと思っています。

「欲」は無くすのではなく
余計なものを取り除いて純粋にする

これを「無欲」と言う。

「欲」が雑駁に散乱して「本来の自分のありたい姿」から遊離するのは、
外からの刺激に、急き立てられたり植え付けられたり刷り込まれたりした
競争心とか虚栄心とか、迎合心とかに
「本当の望み」が覆い隠されてしまうからなんじゃないかと思うんです。
煩悩ぼんのうの雲”ってやつですね。

日本密教で、『大日経』や『金剛頂経』の次いで重視されてきた
理趣経りしゅきょう』には、

妙適清浄びょうてきせいせい

つまり、
性行為が生み出す快楽すら、うまく利用しさえすれば、
悟りへの原動力になり得ると説かれている。

そういえば、
世に多くいる成功者や、偉人と呼ばれる人たちは
「性エネルギー」を性的興奮で発散させるのではなく、
知的分野や創造性など、精神的な側面に転換することで
人生の困難に立ち向かう原動力にしていた

という話をよく耳にします。
これって、こういうことなんじゃないでしょうか。

明徳発輝めいとくはっき〜私の心願〜


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