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la la la 75. 「大祓詞」(おおはらえのことば)【祓い清め給えシリーズ⑥】

こんにちは。日本は言霊(言魂)の国です。このことは日本人であればなんとなく肌感覚でわかると思います。「そういうことあまり口に出さない方がいいよ」とかっていうやりとりの中にその感覚は潜んでいますよね。言霊についてはそれでひと記事になってしまいそうなので、またにするとして、今日は「大祓詞(おおはらえのことば)」つまり言葉による霊力によって、ありとあらゆる「邪」とか「禍」を祓う、というものです。

「え? ほんとうに? 何かを唱えただけでお祓いができるの?」

そう思ってしまう気持ちもわかりますが、そこを疑ってしまったら同時に神社に厄祓いに行く意味も出にくくなってしまうかもしれません笑。なぜかというと、この「大祓詞」こそ、神道で祭祀に用いられる祝詞(のりと=神に向かって捧げられる詞)の中でも最強と言われる祓い詞だからなのです。

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人は生きて日々を過ごしているうちに知らず知らず【穢れ(けがれ)】ていきます。「穢れ」は「”氣”が枯れる」こと。そして【禊(みそぎ)】は「身削ぎ」、つまり身(御魂)の垢を削ぎ落とすこと。
この「大祓詞」が神社で唱えられるのは6/30の「夏越の大祓」と12/31の「大晦日の大祓え」のときです。祓い身削ぎ、そして清めることによって、枯れた「氣」をよみがえらせる。これが神道の考えです。
どうでしょう、ラララ読者の皆様はもしかして「えっ、じゃあやっぱり新年を迎える時も、もしかして「初詣」よりも「晦日の大祓」の方が大事なんじゃない? って感じ始めている?(そして【祓い清め給えシリーズ】のアカスリのススメが案外冗談じゃない感じに聞こえてきたでしょうか・・・?笑)

その通り! 初詣より、とまでは言いませんが晦日の大祓えはとても大切です。でもご心配なく。新年を迎えるにあたって日本人て大掃除したり断捨離したり、銭湯行ったり、結構いろいろ頑張りませんか。それも清めであり禊です。日本人には新年を迎える前には”身削ぎ清める”という感覚が細胞レベルで伝承されていると思います、小さな頃からの習慣として。でもここで改めて「そういうことなんだね」と頭で理解し腑に落とすことは大切なことです。理解することで”Myアレンジ”ができます。少し前の事件ですが「理」を理解していれば、人の生き死にがかかっているときに女性看護士を土俵から追い出すなんてことも起こらずにすんだでしょう。

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そんなわけでこの祝詞「大祓詞」には大変強い霊力があるというわけです。なので皆様もぜひ、いまいち調子が上がらない時に唱えてみてください。
唱えかたは”神社ぶし” じゃなくて全然いいです。特にもやもやしたものがずっとあるけどうまく頭で整理できない時や、ちょっと感度のいい人で「もらっちまったな〜」と思っているでも自分で除霊とかまでできないっていうケースとか、心身の中に蓄積した「澱」を感じている時。

がっつりやりたい人は全部を3回唱えるのがいいと思っていて、さらに最後の1文を3回繰り返すと良いというのが、わたしが先日、瀬織津姫がまされます瀬田川の瀬でこれを読み上げて感じたことですが、皆様おのおのの直感に従ってください。調べたところ、この祝詞は前半後半に分かれていて、後半が大切とされていますが、わたしもそう思います。なぜかというのはこれは具体的に思うところあって、この祝詞の後半が「祓い」に関する本題であるからです。

佐久奈度神社にお参りする際は、川に降りて「大祓詞」と唱ようということは神社に着く前から決めていて、それは「しなくてはならないこと」のような気がしていました。そしたらなんと神社に「大祓詞」が売っていました。よく考えたら祓いの神社なので当然なのでしょうが、用意されていたような気にもなり、笑、わたしはやっぱりこれを唱えるのだなと思ったのですが、

わたしは「大祓詞」はやはり伊吹山に降臨したものであり、ここに書かれている「佐久那太理(さくなだり)=滝から崩れ落ちる」瀬に落多支都[おちたぎつ]、速川[はやかわ]の瀬坐[せにます]、瀬織津比賣[せおりつひめ]」の、
この”早川の瀬”は、瀬田川のことだと強く確信しています。大祓えに書かれた起点となる祓いどころはまさに写真のこの場所だと思うのです。

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これはもう、理屈というよりも生まれ育った街の景色に、世界を旅して帰ってきて、新しい角度から、いつも高校の帰りに歩いたり芝居の稽古をしていた「瀬田川」を見つめてみたときに湧き上がってきた肌感覚のようなもので、もうそれは英才教育レベルの、刷り込みのようなものだと思うのです。幼い頃から雪の中で育った人がオリンピックでメダルをとるような。小さな頃から音楽の中にいた人が自然と曲を作るようになるような。
それと同じような感じで、小さな頃から語りかけてきてくれた瀬田川の言葉、それは悠久の歴史の中に佇む古(いにしえ)の湖の詞であり神 ”なにかしらの存在” の言葉。それらが今ようやくわたしの心に確信となって届いた、そういうような感覚です。(ここはなんだか、サントリーニ島の、わたしがエーゲ海にぽちゃんとした岩場とよく似ていました。エーゲ海と琵琶湖。なんだろう)

そんなわけでまさに祝詞に書かれている場所が視覚化されてここにあるので、わたしが言いたいことは、眺めながらここに流すようなイメージで唱えるときっといいよ! ということです。笑。

なお、これを読んで「いや瀬織津姫のまします祓いの瀬はそこじゃなくてここだと思う!」という場所をお持ちの方、それも間違いじゃないと思うのです。神は ”存在” であり ”御魂” だから三次元の存在じゃない。つまり瀬田川の瀬にいながら同時に日本中の速川の瀬にも存在できる、それが”存在”であります。神が瀬田川という一つの座標でしか禊祓うことができなかったら、どこの神社よりも凄まじい”念”の渋滞がこの瀬田川で起きてしまいます。笑。

形なきものを捉えるには、地点や時間の概念を手放さなくてはなりません。難しいけれどそれをくりかえしお伝えしていく「東の魔女の暮らし」です。今日ここに「絶対瀬田川だわ!」と書いたのは、わたしの確信が”わたしにとって”大切だからです。わたしと瀬織津姫がつながることが”わたしにとって”。あなたにはあなたの確信を見つけてくださいな。そして「そうだわ!」という確信がこの祝詞と結びついた時、きっとその想念が、言霊の力を大きく引き出してくれると思います。

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こうして祓い清められた全ての罪は、高い山・低い山の
頂から勢いよく流れ落ちて渓流となっている急流にいらっしゃる
瀬織津比売(せおりつひめ)と呼ばれる女神が大海原に持ち去ってくださるだろう。

このように瀬織津比売によって持ち出された罪を、今度は人が近づけないほどの大海原の沖の多くの潮流が渦巻くあたりにいらっしゃる
速開津比売(はやあきつひめ)という勇ましい女神が、その罪をガブガブと呑み込んでしまわれることだろう。

このように速開津比売によって
呑み込まれた罪は、今度は海底にあって根の国・底の国へ
通じる門(気吹戸)を司る気吹戸主(きぶいどぬし)といわれる神が根の国・底の国(黄泉の国)に気吹によってフゥーっと息吹いて地底の国に吹き払ってくださるだろう。

このように気吹戸主によって吹き払われた罪は、今度は根の国・底の国にいらっしゃるパワー溢れる速佐須良比売(はやさすらひめ)という女神がことごとく受け取ってくださり、どことも知れない場所へ持ち去って封じてくださるだろう。

このように、あらゆる罪穢をすっかり消滅させて浄化してくださるならば、この世界に罪という罪は一切ありません。
このようにいたしますので、私どもが『祓え給え清め給え』と申し上げる(祓の神事をおこなう)ことを、よくよくお聞き届けくださり、どうかお力をお授けくださいますようにと、慎んで申し上げます。

ー「大祓詞」後半部分抜粋ー

「大祓詞」全文とその解説に関してはこちら。

前半が「天あまつ祝詞のりとの太祝詞ふとのりごとを宣のれ」で終わり、
後半が「此かく聞きこし食めしてば」から始まります。

感覚ですが、少し間をとると良いと思います。芝居や朗読だったらキャストを変える間合いだなと個人的に思っているので、少しニュアンスを変えると良いと思います。わたしが勝手に感じていることなので別に変えなくても構わないですよ。川の流れや滝に向かって唱えると本当にすっきりします。
屋外でそういうことをやって変人と思われたくない人は、少し水道代を気にせず、蛇口をひねって流れ落ちる水に向かって唱えて見ては?

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それではらるらるらん♪
ラララ世界で会いましょう☆ 


嬉しいです ( ´ ▽ ` )ノ