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突先12. 姫妃(キヒ)<Ⅵ6> ヤクモとナギサ

※このシリーズは半分は”おとぎ話”のようなものです。
(なお、この投稿に何かしらの値段をつけないとマガジン「突先」に課金してない方が読めないので値段を設定してありますが、お金を払わなくてもこの記事に関しては解放してあり最後まで読めます☆)

とうとうスピリMがこの滋賀の守山の地にやってきた。ナギサに会いに。
何かしらが始まっている。
当然自分は15年来の自分の友人(スピリM)を信じているけれど、起こることがあまりに奇妙不思議なことなので、どうやってこの出来事に説得力を持たせれば、とか思うのだけども、このわたしですら(本当に来るんだ、我がふるさとへ・・・)という驚きがあって、やっぱり近江の土地には何かしらがあるのだと確信する。と、いうのは誰かが相手を喜ばせようと思って、
「あなたには大きな使命があると思う」とか、
「あなたの生まれた場所は特別な土地よ」とか、言うのは簡単だし、まあある話かもしれないとして、わざわざそれを言った人が、新幹線代を払い、レンタカーを借りて、儀式のためにわたしをわざわざ実家まで迎えに来る、そして送り届けてくれる、そしてわたしは1円も払う必要がないとなれば、
これはもうスピリMの使命であり仕事として彼女はこの地にきているのだという合理性の角度からも信憑感がある。笑。

わたしはもう勝手に当然守山にある「伊勢遺跡」に行くものだと思っていたので、実家に迎えにきたスピリMがその足で「堅田へ行く」と言った時には正直びっくりした。「えっ、モリヤマじゃないんだ」「うんごめん」
スピリMは言う。「どこに行くかも、あなたがここに乗らないとわからなかったの。ナギサに会うにはあなたの体が要るから」

漠然とは理解していたんだけど、伝令的なものは条件が揃わないと入ってこないらしい。わたしの肉体が車に乗って始めて行き先がわかる。
でも行き先に関する伝令はとても明確に入ってくる
「今堅田の伊豆神田神社だって」おもしろい。
そういえばイスラエル師匠がわたしに福知山に行けと言った時もそうだった。「元伊勢に行ってきて、天の岩戸。たくさんあるんだけど福知山の天岩戸に」伝令はいつも明確なのだろう。

えー伊勢遺跡行かないんだ残念〜。そう言うとスピリMは笑った。
「もう、言うこと聞くしかないんだよね。わたしだって昨日から食べたいもの食べられなくて、食べたくないもの食べさせられてるよ。笑。あらがっても、それしかないチョイスにさせられちゃうんだよね。笑」

そんなわけで彼女は絶対行きたくなかった「なか卯」に朝から行くことになったそう。

運転はスピリMのお仲間がしてくださった。運転しながらチャンネリングして伝令を聞くのは結構大変だからとのこと、それはなんとなくわかる。

この神社は、実は中学の時とても仲がよかった友人の家のすぐ近くで、来たことはなかったけどなじみのある場所だった。
「惜しかったね、近くまできてたのにね」

しかし古い神社。

舞台が真ん中にある。これ、滋賀の神社には多く、小浜の八幡宮もそうなんだよね。「写真撮っていいのかな」そう聞くと「いいって」とスピリMから返事。うん、そうだね、いよいよ「開いて」いく時代が始まっているのだ。
でも。

「なぜここなの?」

そう訊くとスピリMは答えた。

「ナギサ姫は、基本的にはここにいるんだって」

へえ。ナギサ姫(妃)ここにいるのか。でもなんでここなんだろう。
なるほどね!と思える理屈が欲しい。知りたがりの自分はそう思いながら、まずはご挨拶。

「やっぱり元伊勢だね、伊勢の造りだね、華美じゃなくシンプルな、余計なものがない」「これが本式なんだね」「ほら、松ぼっくりあるよ、やっぱあるんだね、本式には」

スピリMはいろんなところを見ながら「やっぱ滋賀なんだね」としきりに納得していた。

「ほら、わかるかな、このあたりの次元はものすごく高くて、まだすごく昔の日本の、高い次元が残っている。この感覚を真似してきっとたくさんの場所に神社を作ったはずだよ、今の伊勢神宮も、この感覚と次元を真似ている」

スピリMはそう言うのだけど、わたしにとってこの地場の感覚と言うのは幼い頃から親しんだ幼馴染のようなもの。この場所はおばあちゃん家の向かいの寺を抜けたところ、かつて銀杏が植わっていたあたりと見た目からすべてすごくよく似ているし、多賀大社で、あ、ここ!と思った場所ともとても良く似ている。

(⤴︎多賀神社)
それに地元にはこういう気配の場所はとてもたくさんある。

だからこう「わあ!これが次元の高さね!」と言うより、ただただ懐かしい感じしかしなかった。

「そうか。だからやっぱりあなたの体が必要だったんだね。この感覚を小さな頃から知っているっていうのはすごく貴重なことだよ」
スピリMは言った。

これと同じことが過去、日本モダンガール協会の会長を務めているお方の自宅にお邪魔した時にあった。彼女は大正時代に憧れて、阿佐ヶ谷の、すごく古い、不動産情報などには掲載されない築100年くらいの家に住み、すべての家具や暮らしを、大正時代〜昭和初期に合わせて暮らしている。彼女を取材し、彼女の自宅を訪れたさい、わたしは「すっごい懐かしい」と言った。この⤴︎写真を撮った場所から歩いて帰れる祖母の家は江戸の末期に建てられた家で、そこでわたしは幼少期を過ごした。彼女の家はおばあちゃん家ととても似ていてゆえに子供の頃を思い出し懐かしいと思った。彼女は言った。

「このような家で暮らした体験をもち、懐かしいなんて言えるという感覚を身につけているということはすごく特別なことですよ」

才能や生い立ちというものを人は常に、自身のものを持て余しながら他にそれを見て羨ましがるのだけれど。

今日この神社の佇まいや気配を「懐かしい」と思えることにもある価値が存在するのだ。

「ねえ、ところでこの神社でスピリMはどういう儀式をしたの?」
わたしが訊くと彼女は答えた。
「あのね、縁起の交換」
「縁起の交換?」

「そう、つまりね、わたしは出雲のヤクモの遣いでしょう? それであなたはナギサ姫の遣いなわけでね、わたしたちの肉体が必要なの。それで例えばわたしが出雲に行ってヤクモに会うと ”何か” を託されるわけよ。そしてそれをナギサ姫のところに届ける。そしてナギサ姫からも何かを託される、それをまた出雲に届ける。これが”縁起の交換” ね。これを繰り返して行くと、波動がどんどん上がって、世の中が良くなっていくの」

波動が上がっていって世の中が良くなっていく、というのはあまりに抽象的だけども "縁起の交換" ってなんかわかる気がする。

幼い頃友人ができたら、何かこう小さなものを交換したりした。
鉛筆のキャップとか、気に入ってるビー玉とかそういうもの。
特に何か恣意的にそれをするんじゃなくって不思議とそれをしていたように思う。そしてその行為にはその友人とのこれからの楽しい日々をイメージした「ワクワク」が詰まっていて、その「ワクワク」を交換、つまり”想い”の交換だったようにも思う。その行為(儀式)が何かを自乗にする、というのはわかる気がする。

「それでこのあとは?」
「それがね、もう終わりだって。」「へっ、これで終わり?」
「うん、もうあとはフリーみたい。笑」
「へえそんなあっさりの日もあるんだ」
「まあでも昨日は朝から晩までだったからね〜」

「道の駅に行きたい」とスピリMが言うので、一緒に道の駅を散策。
信楽焼きのグラスを買った。ついでにレストランで昼食を食べる。
「儀式のあとは宴しなきゃね」ということでわたしだけお酒。笑。
食べた鴨そばとカツカレーがとても美味しかったのに写真を撮り忘れた。

帰り道は晴れ。
「儀式が終わるとだいたい晴れるよね」
「その前は雨が多いよね」「そうなんだよね」

わたしは自宅まで送ってもらって、彼女たちはわたしオススメの「ほたるの湯」に。偶然にもその日は2/6(風呂の日)だった。

ヤクモとナギサの縁起の交換。

何が動き出すのだろう。

長くなったので「縁起の交換」についてはまた明日。
ちょっと不思議な余談も交えて語ろうと思う。

実は「姫妃(キヒ)」シリーズ、vol.5の「岩戸開き」をまだ書いていません。それも明日明後日中にUPしますね。
前回はこちら↓(※こちらは有料記事です)
記事の最後にはシリーズ全話に飛んでもらえるリンクが貼ってあります。

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