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「3.11」あれから10年……。あの時を振り返り、未来への願いを綴る

3月11日の今日、おそらくこのようなタイトルで投稿している方が多いかもしれません。

東日本大震災から今日でちょうど10年です。
震災のとき、東京都内に住んでおり、今も都内に住んでいます。都内は東北地方よりは被害は少なかったのですが、震災が起きて約1ヶ月間は私自身が突発性難聴を発症。メンタル面で物凄くやられたのは今も記憶に残っていますが、家族や友人のおかけで本来の自分に戻すことができ、今に至っています。

めまい……? それは大きな揺れだった

2011年3月11日の14時46分。私は息子の幼稚園のお迎えで自転車に乗っていました。もともと貧血持ちでめまいも感じる体質だったこともあり、最初は揺れをめまいと思っていました。一旦自転車を止めて様子をみていたところ、次第に揺れが大きくなり「地震」と認識。

「このまま幼稚園のお迎えに行けなかったらどうしよう……」と焦りも感じました。

その揺れから約10分後、何とか幼稚園に辿り着き、園児のなかには大泣きしている子もいました。地震で呆然した息子のお迎えを終えて、今度は息子を連れて当時小学2年だった娘の小学校へ向かい、地震が起きて約1時間後に何とか大泣きしていた娘と対面し帰宅します。

帰宅後、事の重大さを思い知った

学校のお迎えから子供二人と一緒に自宅で待機することになった私。
大きな揺れによって娘の学習机に置いてあった教科書が床に散乱し、改めてこの地震の重大さを知りました。

また、会社で仕事の夫、実家や姉、友人と電話がつながらないことにも気づきました。情報がわからない私は自宅でテレビをつけて情報を入手。東京から約300~500km先で起きている津波や大きな余震が映像を見たことでショックを受けてしまいました。

このショックを受けたのは私だけではありませんでした。
いつも天真爛漫にしている息子の心にも衝撃を受けたのを今でも覚えています。私と息子はショックで夕飯をほとんど食べることができませんでした。当時息子は年長で小学校入学直前でしたが、トイレやお手洗いに行くだけで不安になり、後追いされました。私自身、息子をハグして落ち着かせ夫の帰りを待ちました。

その夜、夫は3時間かけて日本橋近くの職場から歩きで帰宅

「3.11」に夫と連絡取れたのが、18時頃でした。
メールに「みんなは大丈夫か?」という内容。電話しようとしたら電話の回線がパンクしていたので、密に連絡することもできず。連絡が途絶えてしまいました。加えて、ニュースで東京駅周辺が多くの帰宅難民がいるということで、どうなっているか気がかりでした。

当時の夫の職場が(東京の)日本橋から近い場所でしたが、電車が止まっていたので、3時間かけて歩いて帰宅。ちょうど職場ロッカーに入れておいたスニーカーがあったので、それを履いて帰ってきたそうです。

私の友人家族は帰宅難民となり、家族で再会できたのが翌日だったそうですが、我が家は何とか3月11日の夜に全員揃うことができました。そして実家も親戚も翌日に無事安否を確認できました。

被災地訪問がきっかけで将来の道を決めた娘

私にはこの春から大学生になる娘がいます。通っていた中学高校が防災に力を入れているため、防災に関する多様な学びを習得しました。


中学3年の終わりに被災地に出向いた形のワークショップに参加。現地の方から当時の様子や展望をヒアリングしたことで「震災に強い施設づくり」「安心できる住まいづくり」をしたいと強く思うようになりました。娘は小学校のころに家を新築してから建築士になるという夢を掲げていましたが、このワークショップによって自分の進路を建築関係の仕事にきちんと定めたそうです。

そして念願が叶い、娘は4月から大学の建築学科に入学します。
この10年で得た学びや教訓を活かし、自分の夢に向かって邁進してほしいと思います。建築デザインという分野で周りの人を幸せにしてほしいと願っています。

最後に

東日本大震災によって、今ある生活や命について考えさせられたという方は多いことでしょう。この出来事を教訓を忘れずに「どうしたら災害を軽減し、被害を最小限にできるか」ということをこれから意識できるよう努めていきたいと思います。

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