古典100選(4)更級日記

『枕草子』が完成してから7年後、1人の女性がこの世に誕生した。

菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)である。文字どおり、父親は菅原孝標なのだが、女性の本名は分からないので、「女(むすめ)」という呼ばれ方になっている。

『蜻蛉日記』の作者である藤原道綱母もそうであるが、実は、菅原孝標女の実母のお姉さんが藤原道綱母なのである。

つまり、菅原孝標女から見れば、藤原道綱母は伯母にあたる。だが、藤原道綱母は、995年に死没しているため、お互いに顔を知ることはなかった。

さて、この『更級日記』の冒頭部分は、非常に有名であり、菅原孝標女が、当時出回っていた『源氏物語』をものすごく楽しみにしていた様子が窺い知れるのである。

では、冒頭部の原文を見てみよう。

あづま路の道のはてよりも、なお奥つ方に生い出でたる人、いかばかりかはあやしかりけむを、いかに思ひ始めけることにか、世の中に物語といふ物のあんなるを、いかで見ばやとおもひつつ、つれづれなる昼間、宵居などに、姉・継母などやうの人々の、その物語、かの物語、光源氏のあるやうなど、ところどころ語るを聞くに、いとどゆかしさまされど、わが思ふままに、そらにいかでかおぼえ語らむ。 

いみじく心もとなきままに、等身に薬師仏をつくりて、手洗ひなどして、人まにみそかに入りつつ、「京にとくあげ給て、物語の多く候ふなる、あるかぎり見せ給へ」 と、身を捨てて額をつき、祈り申すほどに、十三になる年、のぼらむとて、九月三日門出して、いまたちといふ所に移る。

以上である。

「十三になる年」とあるように、そのときに上京が実現するまで、今で言うなら小学校高学年のときに「源氏物語を読みたい読みたい」と、薬師仏を自分で作って祈っていたほどである。

現代の私たちには、大人でさえ、源氏物語の原文を読んでもサッパリ分からない文章を、小学生が読みたいと言っているのだから、この菅原孝標女がどれだけ賢い女性だったかが想像できるだろう。

作者のお姉さんや継母たちは、退屈な昼間とか夜遅くに起きているときに、源氏物語などのお話の内容をところどころ話題にしていて、そばでいつも聞いていた作者は、「実物を早く見たいから、私を京都に連れて行って。」と願っていた。

書き出し部分にあるように、作者は、「あづま路の道の果てよりもなお奥の方」に生まれている。

そして、上京が実現したのが1020年。

冒頭部の続きを読んでいくと、上京までの旅路が描かれ、その後、京都に着いたら、念願の源氏物語をほぼ全巻読ませてもらえたことがさらっと書かれてある。

この『更級日記』は、原文と現代語訳を交互に見ながら読んでいくと、わりと内容は理解しやすい。

『源氏物語』のほうが、難解である。


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