歴史をたどるー小国の宿命(77)

今の韓国と福岡県の間の中間点は、長崎県に属する対馬(つしま)である。そして、その対馬のすぐ南に壱岐(いき)があり、これも長崎県に属している。

海上に浮かぶこの2つの島に、蒙古軍は襲来した。1274年、文永の役の始まりである。

当然のことながら、武器もない一般庶民は捕われ、あっという間に蒙古軍は九州に上陸してきた。

この蒙古軍の襲来のきっかけとなったのは、1年前の1273年1月の出来事がある。

元から「趙良弼」(ちょうりょうひつ)という使者が、最後通告として何度目かの服属の要求をしてきて、朝廷や幕府の権力者への謁見を求めに来日した。

自分の要求が叶えられないなら首を斬れとまで挑発し、1年もの間、日本に居座った。しかし、謁見は実現せず、自国に帰ることになり、これを聞いたフビライ・ハンは、侵攻を決断したのである。

高麗の軍と合わせて2万5千人の兵を率いて、900艘の舟で襲来した蒙古軍は、戦いに慣れていない日本軍を圧倒した。

日本側も、肥後国の御家人である竹崎季長(たけざきすえなが)を中心に応戦したが、終始劣勢であった。

このまま内地に進撃されるかというところで、日没となったので、蒙古軍はいったん海上に引き揚げた。

ところが、一夜明けて、再度日本軍が臨戦態勢をとろうとしたところ、海上に蒙古軍の姿はまったく見えなかったという。

理由としては、玄界灘で暴風雨に遭い、頑丈ではなかった船もろとも遭難したといわれているが、はっきりしたことは分かっていない。

こうして、文永の役は、蒙古軍の自滅(もしくは戦略的撤退)に助けられ、日本はかろうじて本土侵略を免れたのである。



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