【続編】歴史をたどるー小国の宿命(54)

第107代の後陽成天皇が、1603年に家康を征夷大将軍として任命してから8年後(1611年)、息子の後水尾(ごみずのお)天皇が第108代天皇として即位した。

その翌年、家康は、後水尾天皇の后として、秀忠の5番目の娘・和子(まさこ)の入内を再度打診していた。最初の打診は、1608年にあったのだが、後陽成天皇が難色を示していた。

再度打診があったとき、後水尾天皇はまだ16才であり、秀忠の娘である和子は5才であった。

1614年に、正式に入内宣旨が出されるが、タイミング悪く大坂冬の陣が勃発し、大坂夏の陣が終わったあとは、家康と後陽成天皇が相次いで亡くなったために延期され、ようやく秀忠の娘が入内できるかというときに事件が起こった。

すでに20才になっていた後水尾天皇は、当時仕えていた女官と密通しており、なんとその女官が男子を産んでしまったのである。

家康はすでに亡くなっていたものの、このことが秀忠の耳に入ったらどうなることかと、朝廷の関係者の間には一気に緊張が走った。

案の定、秀忠は激怒し、女官は追放された。さらには、後水尾天皇の側近にも配流などの処罰が命じられたため、さすがに後水尾天皇も憤慨し、自ら退位を申し出ようとした。

だが、家康や秀忠の忠臣だった藤堂高虎(とうどう・たかとら)が、後水尾天皇を恫喝し、「和子様の入内が認められないなら、御所で切腹する」旨を言い放ったという。

藤堂高虎は、このとき64才。後水尾天皇は23才である。

じじいが若者を恫喝するのも、今では笑ってしまうのだが、朝廷からすれば、神聖な御所で切腹などされたらたまったものではない。

秀忠は、『禁中並公家諸法度』の第11条をさっそく適用した。

【第11条】関白、傳奏、并奉行職事等申渡儀、堂上地下輩、於相背者、可爲流罪事。
(関白・武家伝奏・奉行職が申し渡した命令に、堂上家・地下家の公家が従わないことがあれば、流罪にするべきである。)

1620年、秀忠の強引な要求に朝廷は屈し、後水尾天皇は、秀忠の娘・和子の入内を正式に受け入れたのである。






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