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「フェルマーの料理(第9話)」料理と数学が出てこない中での帰還は分かりにくい

志尊淳が帰ってきた意味がもう一つ分かりにくい。高橋文哉の気持ちに応える感じはいいが、あまりにも簡単にそこに至るのはドラマとしていかがなものだろうか?今回は、前から出てきていた高橋のシェフとしての暴走が、店から全てのシェフを去らせることになるという展開。このシーンも最初から出してきていたから、もう少し拗れた末の話かとも思ったが、単なる高橋の自己顕示欲というか、料理に対する思いが強すぎて、客本意でなければならないホールのビジネスを無視して突っ走ったからだ。そう、視聴者にしても、誰も高橋の味方になる者はいないだろう。

そして、その混乱の中で数学的解析が一つも出てこないのはおかしい。料理を作る時間と、客にそれを配膳する時間は、レストランの中で最も大切にしなければいけない数学だと思うのだが、それを蔑ろにして、自分の料理の極みみたいなものを追求しようとする高橋の姿は、壊れたコンピューターでしかない。ここに至った原因を考察せずに、ただ、志尊に頼ろうとして動くのも責任者としては不適格だ。そういう意味では、ラストに小芝風花が行った「調理場に立ってもらいたくない」という気持ちは当然であり、店をほったらかしにした二人が作る料理がうまくても、美味しく感じない状況になっているということだ。

そして、この騒ぎの中で、スポンサーや及川光博がほくそ笑んで出てきたりしないのも面白みに欠ける。高橋が志尊に見守られながら、料理に対し成長していくシークエンスは、皆、それなりに面白かったが、ここにきて、このドラマの世界観というか、結局「何を描こうとしたかったの?」という部分が今ひとつよくわからない。そういうところは少年漫画誌のコミックのテイストなのだろうが、ドラマにする場合はもう少し大人の味付けが必要に感じる。

だいたい、高橋が志尊に会いにいくときに、また前髪を垂らした幼い髪型に戻しているが、これでは、何か「振り出しに戻る」的な感じ見えるし、高橋が「孤高」を味わって鍛えられたものは何なのかが全くわからないのは辛い。志尊に会う前に会った仲村トオルにしても、彼の存在意義自体がいまいち前に出てこないため、彼自身がドラマの面白い要素になっていないのも気になるところ。

そう、仲村が出したジビエ料理は美味しそうであり、その蘊蓄もそれなりに面白かったが、その言葉が高橋に響き、今回の大きな要素として残っていくか?ということはない感じでもあった。つまり、志尊の心が動くまでに至るストーリーがわからないのだ。

とにかくも、このドラマは料理がメインであり、美味しそうなそれが前に出てこないような回を作ってはならないのだと思うし、数学的な脳の使い方も出てこないのはまずい。高橋は、そういうセリフを言う役割なわけで、そんな言葉で志尊が折れるような展開が見たかった私である。

これで、あと一回で終幕と言うのはかなり尻切れ蜻蛉になる気がする。見どころは、「K」と言うレストランが復活できるのかと言うことと、高橋の料理に対する態度は未来に向いていけるのか?と言うところだろう。期待はできないが、どうまとめるかお手並み拝見というところですね。


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