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イルカに似ている [短編小説]

 神無月が終わって、街は一気に冬の衣裳をまといはじめていた。わずかに目につく取り残されたハロウィンの残骸がもの悲しい。商店街の中には今日も過去と未来が点在していた。
「駅から徒歩3分じゃ、あれが限界だよね」
 駅前のマックで遅い昼食を食べながら藤田加奈と友人の松本由美が内検しに行った物件について話し合っていた。いつにも増して熱心な由美の態度に、加奈は少し驚いている。
「冬が来るまでには目途をたてたいなぁ」
 頬張っていたダブルチーズバーガーをコーヒーで流し込み、由美は心底それを願っているという表情でつぶやいた。くちびるの端にトマトケチャップがついている。
「条件としちゃ悪くないから、あそこにしちゃおうか」
 加奈はそう言いながら、卓上の紙ナプキンを一枚手に取ると由美に差し出した。きょとんとした顔で見つめ返す由美に、仕草でケチャップの事を教える。やっと合点がいったようで、ありがとうと言いながら由美はナプキンを受け取った。
「ビルの三階ってのがねぇ…」
 由美は口を拭いながら、さもそれが重要な欠点だという顔をした。加奈も同じ意見だが、一年近く歩き回ってきた実感としては、逃したくない好物件であるとも感じている。中目黒の駅に近くて、十万円を切る家賃の店舗物件はざらにない。保証金も手持ちの貯金で何とかなりそうだ。加奈の中では、もうほぼ決まりだった。
「あそこに決めようよ。由美はアクセサリーを開発し続けてくれればいいからさ」
 加奈はそう言うと、もう一枚紙ナプキンを取り、簡単に店の見取り図を描きはじめた。建築学科を卒業しているから、こういうのは得意中の得意である。頭の中に浮かんでいた店内の配置を描いていくと、由美もひきこまれた様子だった。
「加奈にそこまでイメージがあるなら私もいいよ」
 ビルの入口には通行人が嫌でも目につくような看板を置く。以前鎌倉で見かけた喫茶店のように、ダリの肖像画でも描いたら目を引くかもしれない。ビルのオーナーに相談して、階段の壁面や段自体も店への導線として装飾させてもらおうと加奈は考えていた。
 全部自分でやれる自信がある。課題漬けで苦しめられた大学時代ではあったが、おかげで考えたものを形にする力は鍛えられた。
 それは由美も同様だ。お互いに建築士には向かなかったが、そこそこの「ものつくり」にはなれた。加奈は由美が作るアクセサリーに惚れこんでいる。二十歳の誕生日に由美が作ってくれたラピスラズリのピアスを、加奈は宝物のように大事にしていた。
 店を共同経営するということは、一生のつき合いをしていこうという二人の決意の証でもあった。かつては一人の男を巡って争った二人が今は生涯の親友としてつき合っている。そう思うと、加奈は不思議な気持ちになった。

「ところでさ、ビルのオーナーってどんな人?」
 やがてダブルチーズバーガーを食べ終えた由美がコーヒー片手に寛ぎながら加奈に訊いた。加奈は最後のナゲットを頬張ったところだ。しばらく口をもごもごさせながら先週不動産屋で偶然出くわしたオーナーの顔を思い出そうとしていた。
 言葉で説明するのが思いのほか難しい。一度しか会っていないのだから、そもそも知っている情報が少なかった。ただ、担当してくれている不動産屋の女性社員は、このオーナーを気に入っているようで、幾つかの不確かな情報を教えてくれてはいる。
 まず未婚である事。都内に親から相続した幾つもの貸しビルを持っていて、生活には困っていないそうだ。相続したというのだから、少なくとも父親はすでに他界しているのだろう。それにしても四十代で未婚というのは、何か訳有りな雰囲気がする。
 顔立ちについてはいたって普通だという印象しかない。全身黒い服だったことの方が印象的だった。その証拠に、顔は絵で再現できるほどには覚えていないがシルエットなら描けた。初対面の挨拶でもらった名刺には、二階堂宣親という何とも大仰な名前がプリントされていた。肩書は特にない。どんな人かとSNSを検索してみたが見つけられなかった。ふと世捨て人という言葉が加奈の脳裏に浮かんだ。
 とにかく契約することが決まればまた会う機会はあるだろう。そう加奈は思った。由美はもうオーナーへの興味を失ったようで、思いつくアクセサリーを手帳に描きはじめている。面倒なやり取りは加奈に任せると笑って言い切った。加奈もそのつもりだったが、わざと膨れたふりをしてみる。それが二人のバランスにはちょうど良い。
 借りると決めたのだから早く不動産屋に連絡しなければという思いもあったが、どうせなら、このまま直接伝えに行きたい。距離にして300メートルほど歩けば着く。外は晩秋を感じさせる寒さだった。もう少し暖かい店内にいても大丈夫だろう。そんな思いで、加奈はコーヒーをお替りした。それがまさか思わぬ面倒に巻き込まれる事になるとは思いもしなかった。

 加奈が重い腰をあげて不動産屋に立ち寄ったのは、午後3時を少し過ぎた頃だった。由美はマックからそのまま美術館に行くと言うので、店の前で別れている。一人で不動産屋を訪れ、担当の女子社員に紹介された物件を借りたいと伝えると、少し複雑な表情になった。少々お待ちいただけますかと言われ、カウンターの隅の席へと案内される。
 フロアの奥には四人掛けのソファーがあり、そこでは不動産屋の社長らしき人物が誰かと話しているのが見えた。女子社員は真っ直ぐ社長の元へと向かう。加奈の事を話しているのは間違いない。
 話の途中で、社長がちらりと加奈を見た。同時に社長の向かいに座っていた男が振り返って加奈を見る。例のビルのオーナーである二階堂だった。
「はじめまして。弊社の代表をしております掛川と申します」
 しばらく女子社員からの報告を聞いていた社長は、やがて加奈の所へあいさつをしに来た。ビルオーナーの二階堂はソファーに座ったままコーヒーカップを手にしている。加奈の胸に、なんとなく不安な気持ちがよぎった。
「この度は弊社のご紹介した物件をお気に入りいただき、ありがとうございます」
 掛川と名乗った社長は、にこやかな表情でそう言った。だが、続く言葉は加奈にとって気持ちの良いものではない。一足違いで、もう借り手が見つかってしまったのだという。社長もたった今、そうオーナーから聞いたところなのだそうだ。
「そんな…先日紹介されたので、今日わざわざ時間を作って内検に来たんですよ」
 加奈はすぐに連絡しなかったことを内心で後悔していた。少なくとも、もう二時間は早く意志を伝えられたのだ。もしオーナーが来るより早く借りたい意志を伝えていたら、たとえあのビルが借りられなかったとしても、いろいろ融通をつけてもらえたかもしれない。そんな思いが一瞬のうちに加奈の心を駆け巡っていた。
「もう少し早くご連絡だけでもいただければ良かったのですが」
 社長は加奈の胸の内をわかっているように、すかさずそう言った。百戦錬磨の不動産屋には、まだ二十五歳の小娘の思惑など透けて見えるのかもしれない。
「あちらに座っている方、オーナーですよね。直接お話しさせていただけませんか」
 加奈はわざと聞こえるように大きな声でそう言った。聞こえないふりをされたら、そのまま目の前まで歩いて行こうと席を立つ。だが、オーナーの二階堂は無視はしなかった。振り向いた顔はとても穏やかな表情をしていた。
「藤田さんでしたね。先日ご挨拶させていただいた二階堂です。どうぞこちらへ」
 そう言うと二階堂は、ソファーから立ち上がり、加奈に手招きした。社長も女子社員も驚いた表情で二階堂を見ている。本人が言うのだから、誰も加奈を止めはしない。加奈は自分でも一気に緊張していくのが分かった。少しちぐはぐな足取りでソファーへと向かう。そんな様子を、二階堂は穏やかな表情を少しも崩さずに見つめていた。

 二階堂が加奈に求めたのは、なぜあのビルの一室を借りたいと考えているかを説明する事だった。ちょうどマックで描いた雑貨屋の見取り図もあったし、由美から預かったアクセサリのサンプルも持っていたので、それを二階堂に見せながら加奈は熱く語った。
 プレゼンは大学生時代に鍛えられた能力のひとつだ。偏屈な教授たちを納得させられるように、とにかくいつも工夫を凝らしてきた。そのおかげで、加奈の引き出しの中は潤っている。イタリアに短期留学した経験も、表現力を高めたと言えるだろう。
 とにかく日常茶飯事で口説かれたから、男相手の駆け引きにもすっかり慣れた。覚悟さえ決まれば、こんな突然の要求にも自信を持って臨める。いつの間にか、そんな女になっていた。ところが二階堂相手には、簡単には済まなかったのだ。
「あなた自身にとって、雑貨屋を経営するということはどんな意味があるのですか」
 もう言いたい事はないという所まで加奈が語り終えた時、ずっと黙って聞いていた二階堂が口を開いた。どんな意味があるのか話したつもりでいた加奈は、その問いに面喰って思わず口をつぐんでしまう。沈黙は力にはならなかった。
「あなたの考える雑貨屋がとてもユニークなのはよくわかりました。確かに居場所がないと感じている人は多いでしょう。単なる若者向けの雑貨だけを扱う店とは違うコンセプトなのは十分に伝わりました。ただ、あなたがこの店を経営する意味は何なのでしょう。それが分からない以上、やはり私は部屋を貸す訳にはいかないのです」
 二階堂の声には不思議な魅力がある。いつから声フェチになったのかと訝るほど、知らず知らず引きこまれていた。加奈自身が雑貨屋を経営する意味を伝えることが出来、それに二階堂が納得すれば、まだ賃貸契約を結べる可能性があるという口ぶりだった。
 二階堂は終始変わらぬ表情で加奈を見つめている。きっと彼が求めているのは、根源的な何かなのだろうと加奈は悟った。ほぼ初対面とも言って良い相手に、どこまで自分を晒せるだろう。迷いが加奈の心で蠢いている。
「あなたはイルカに似ていますね」
 ふいに二階堂はそうつぶやいた。どういう意味なのか加奈にはわからない。そんなことを言われたのは初めてだった。
「イルカって…あのイルカですか?」
 躊躇いがちにそう訊き返すと、二階堂は少し笑みを浮かべながらそうだと答える。
「こんなことを言うと失礼かもしれないが、あなたが亡くなった友人に似ているもので…」
 二階堂は思わずそう言ってしまったのか、言葉の語尾は途切れそうに弱くなった。だが、むしろそれが加奈の背中を押したのかもしれない。一瞬で迷いが消えた。
「ちょっと時間がかかるかもしれませんが、聞いていただけますか」
 加奈の申し出に、オーナーは静かに頷いた。社長や女性社員に大丈夫かと問うように顔を向ける。二人とも少し戸惑ってはいたが、特に異存はなさそうだった。
「では始めてください」
 すかさず二階堂が水を向ける。加奈は静かに語りはじめた。それはプレゼンするために事前に用意したものではない言葉だ。自分が雑貨屋を経営することの意味になるのかどうかも分からない。ただ、ずっと心の内に堆積していた思いが加奈の口からこぼれ出ていた。

◇◇◇ ◇ ◇◇◇

 中学生の頃、加奈はコスプレに夢中だった。アニメやゲームに登場するお気に入りのキャラクターたち。そのコスチュームをせっせと作っては、アマチュアカメラマンが主催する撮影会に参加していたのだ。
 自分とは違う何者かになること。今思えば、コスプレはそんな思いの表れだったのかもしれない。自分という存在がどこかあやふやで、別のものになることで、逆にあやふやでない自分を見つけたいと望んでいたように思う。
 コスプレーヤーたちが集う大規模なイベントもあったが、さすがにそれは腰が引けた。親しくなっていた中年カメラマンの一人が仲間たちに声をかけて開催していたごく小規模の個人撮影会に足を運ぶ。中学生ということもあって、はじめから皆が加奈に優しく接してくれた。
 だがこの時期の少女の成長は早い。やがて本人の意思とは関係なく、身体はどんどん大人の女へと成熟していく。当然、キャラクターによっては露出度が高い大胆な衣裳の場合もある。そんな時は、男の欲望をむき出しに迫られることもあった。
 一度も危ない目にあわなかったと言えば嘘になる。ギャラを餌にスタジオと称する怪しげな場所に連れ込まれてしまい、恐怖で思うように抵抗できないこともあった。それでも、その都度誰かが助けてくれている。この時も、まさに絶体絶命というタイミングに、不審に思ったビルの管理人が警察に通報してくれたお蔭で助かった。あの頃に痛い目にあわなかったのはとてもラッキーな事なのだが、加奈はずっとそれが普通だと思っていた。ひとつ目の大きな間違いだった。

 高校生になって、もっと将来の事を考えるようにと母親から言われ始めたのをきっかけに、コスプレとは距離を置いた。六歳年上の兄が鬱になりはじめ、家に引き籠りはじめた頃だ。家を守っている母親の言葉には反抗できない重みがあった。だからあっさりと足を洗ったのかもしれない。
 新聞社に勤める父親は仕事が忙しいことを理由に家庭を顧みず、職場が近いからと横浜に借りたマンションで暮らしていた。母親は嘱託の産業医として複数の企業と契約しており、収入も良い。経済的にはとても裕福な家庭だった。それでも万全で幸せな家庭にはなり得ないのだと加奈は学んだ。
 学校から帰ってくると、待っているのはリビングでサッカーボールを蹴り続ける兄の存在。壊された食器や家具が四散している。働き始めた会社での悪しき人間関係が引き金だった。いわゆる社内いじめだ。妹である加奈には直接危害を加えないものの、その存在の異様さは徐々に心を蝕んでいく。
 それでも加奈がおかしくならなかったのは、間違いなく母親がいたからだろう。荒れ狂う兄を逃げずに真正面から受け止め続けた母親。その偉大さだけが日々の中で加奈に刷り込まれていった。やがて兄の攻撃的な行動は影を潜め、ひたすら部屋に引き籠るようになる。母親はそんな兄を自ら治療することに決めているらしかった。
 母親がそう決めている以上、悪い結果になるわけがない。加奈は何も心配していなかったと思う。母親のアドバイス通りに塾へ通い、進学先は自由に選べと言われた通りにし、つきあった彼氏についても逐一母親に報告した。兄とは違い、自由にさせてもらっている。そう思い込んでいた。それがふたつ目の大きな間違いだ。

 それから十年近くの歳月が過ぎ、なぜか今家族はひとつ屋根の下で暮らしている。以前よりは万全で幸せな家庭に近づいているように見えたが、絶妙なバランスで倒れずにいる積み木の家の様に、母親という土台がそれを支えていた。
 兄は一般的な就職こそしていないけれど、学生時代の友人の仕事を手伝い、僅かながらではあるが収入を得ている。鬱が完全に治ったわけではないが、悪くもなっていない。
 離婚寸前までひどくなっていた両親の関係は、加奈には理解し得ない何かをきっかけにして修復され、再び一緒に暮らすようになっていた。母親はたまに父親のことを「運命の人だから」と言ったりする。加奈にはそれが不思議でならない。
 運命なんてものが本当にあるのだろうか。あるとすれば、運命とはいったいどういう仕組みなのだろう。母親が言うような運命の人に出会うことは、本当にあるのだろうか。加奈は時々、それを必死で考えた。わかる訳がない。だから、いつの間にか母親の言葉を鵜吞みにした。たぶん、これが三つ目の大きな間違いなのだろう。

 そして二十五歳になった加奈は、いつ頃からか自由人と称して生きるようになっていた。周りの意見などには左右されず、自分らしい生き方をする。自分でも都合の良い言葉を見つけたものだと気に入っていた。
 大学は某有名私大の建築学科を選んだ。八年間で卒業できれば良いと母親には言われていたが、さすがにそれは自分自身が嫌だったので、ちゃんと四年間で卒業している。
 だが、他の学生たちのように就活はしなかった。所属のない生き方に本当は恐怖しながらも、母親の支える家で安穏と暮らし、自由人という便利な言葉を盾にしながら日々を過ごしている。
 ポートレートのモデルやコンビニのアルバイトをしながら、大学生時代からの友人である由美と一緒に小さな店を持とうと画策し始めたのが一年前。初めて母親に報告も相談もしなかった。由美に言われた一言が、前に進む原動力になっていたと思う。
「これってさ、私たちにとってのインド旅行みたいなもんかもしれないね」
 口先だけで自由人を騙っていた加奈が、少し本気になった瞬間だった。

 はた目には幸せそうでありながら、決して本当には幸せでない家庭。母親が一生懸命に守り続けてきた家。その場所も加奈にとっては、かつて自分という存在に感じていたのと同様に、あやふやな場所でしかない。その中で朽ち果てていくことへの漠然とした不安と恐怖に蓋をして生きてきた。
 人は誰でも大きな間違いを犯すものだ。その時、日常と同じ空間にいてもなかなか流れからは抜け出せない。間違いに気づかない場合さえある。これが運命だと無理やり自分を納得させて、あがきながら生きている人が多いと加奈は思っていた。母親もその例外ではない。
 自分の居場所がないと感じる人のために雑貨屋を作りたいと考えるようになった。その気持ちには嘘はなかったが、誰よりも居場所を求めていたのは、きっと加奈自身だったのだろう。居場所というより、加奈が本来作りたかったのは人生の避難所のような場所だったのかもしれない。
 どこにそんな思いが隠れていたのかという程に、加奈は長い時間をかけて語り続けていた。たぶん生まれて初めてだろう。不動産屋の社長と女性社員は何度も中座したが、二階堂は身じろぎひとつせずに、ずっと加奈の話に耳を傾けていた。

「ありがとうございました。よく話してくれましたね」
 加奈が語り終えた時、二階堂はそう言った。続けて、一週間後にもう一度時間を作ってくれないかと加奈に申し出る。そして、それまで例の物件については凍結して欲しいと不動産屋の社長に言った。
「それはあの物件を貸してくださる可能性があると考えても良いという意味ですか」
 加奈は慌てて二階堂にそう訊いた。それについては一週間後にと二階堂が曖昧に答える。金持ちの道楽につき合わされたのではないかという疑念が一気に胸の内に膨らんだ。とにかく誠意のない態度が許せない。つい声を荒げてしまった。
「私が信じられないのであれば、これで話は終わりです。恨んでいただいても構いません」
 二階堂は最初と同じ表情でそう言った。加奈は折れるしかなかった。

◇◇ ◇ ◇◇◇ ◇

 一週間はあっという間に過ぎていった。ことの顛末を由美に話すと、彼女にしては珍しく声を荒げて二階堂の事を罵しり倒す。やっぱり一緒に行けばよかったと後悔させてしまった。だが、悪いなと思いながら、なぜかくだらない質問をしてしまう。
「ねえ由美、私ってイルカに似てる?」
 由美は例のきょとんとした顔で、「何それ? のっぺりした顔かってこと?」と訊き返してきた。「目と目の間が離れた顔つきってことかな?」と失礼極まりない言葉まで飛び出した。おまけに、「イルカってさ、ケケケケケってけたたましく笑うんだよね」と馬鹿にしたように言う。イルカに似ているという言葉からは、良い印象を受けないことだけがはっきりした。
 由美は見た目と違って、案外ずけずけとものを言うタイプだ。もし由美が一緒だったら、きっとオーナーとの話もあんな内容には及ばなかったろう。時間が経つうちに、加奈はあの話が出来て良かったと考えるようになっていた。ずっと自分が押し殺してきた思いに気づけたことは何よりも得難い事だったと今は思える。
 中学生の時、コスプレに夢中になったことも、人と違う道を選んで歩くようになったのも、実はひとつの根っこで繋がっていたのだと気づけたからだ。無意識のうちに自分自身の居場所を探していたのだ。それ以上でもそれ以下でもない。だから雑貨屋という居場所を、自分と似た者たちに提供したいと考えるようになったのだろう。
 二階堂が問いかけた加奈自身にとっての意味とは、自分にとっての本当の居場所を作る事なのだ。それに気づけただけでも儲けものだったと、加奈は一週間の間に思うようになっていた。
 ただ、ひとつだけ謎が残っている。加奈がイルカに似ていると二階堂は言った。その意味だけはどう頭をひねっても分からない。二階堂から告げられる返事がどうであっても、最後にイルカの意味だけは訊きたいと加奈は思うようになっていた。

 約束の日になり、不動産屋を訪れると、二階堂は先に来ていた。社長と笑いながら話している。期待するのはやめようと思いながらも、加奈の心臓は激しく鼓動していた。そんな加奈に、二階堂が視線を向ける。右手があがり、先日同様に手招きした。
 加奈は軽く会釈をすると、二階堂が座っているソファーに向かって真っ直ぐ歩いていく。社長が立ち上がり、加奈に席を譲った。お二人だけでとのことなのでと言って、そのまま奥へと姿を消す。女性社員だけが、電話番としてオフィスの片隅に座ったまま仕事を続けていた。
「コーヒーを買って来たんです。どうぞ飲んでください」
 ソファーに腰かけた加奈に向かって二階堂がそう言った。中目黒でも有名な喫茶店の持ち帰りのコーヒーだった。勧められるままにカップの蓋を開けると、コーヒーの匂いが事務所の中に漂う。一瞬、時間が止まったような気がした。
「今日はわざわざ来ていただいて申し訳ありません」
 加奈がコーヒーを一口飲んだのを見てから、二階堂は口を開いた。どうしてこんなに同じ表情でいられるのだろうと加奈が訝るほど、二階堂は温和な表情のままで座っている。そのまま、何でもない事のように言葉が続いた。
「例の物件ですが、やはりお貸しすることは出来ません。申し訳ないが、実はもう取り壊すことが決まってしまっていたんです」
 期待しないと決めていながらも、二階堂の言葉に加奈は落胆した。わずかでも可能性があるから改めて呼ばれたのだとは思っていたからだ。だが、二階堂の説明ははじめから可能性のないことを再確認するだけの一週間だったと伝えているに過ぎない。
 それでも加奈は、もう食い下がらないつもりでいた。先日ならば怒りや恨み言が出たかもしれないが、あの物件に出会い、二階堂と話せたことが無駄な時間だったとは思っていない。こんな巡り合わせもあるのだと加奈は納得していた。
「ありがとうございました。また物件探しを続けます」
 そう言ってから、加奈はコーヒーを味わいながら飲んだ。ふと涙がこみ上げてくる。慌てて目頭を押さえたが、くい留めることが出来なかった。恥ずかしさで二階堂の顔を見ることが出来ない。だが、二階堂が加奈を見ている事はひしひしと感じられた。
「やっぱりあなたはイルカに似ていますね」
 二階堂の声が聞こえる。最後に質問したかった問いが、自然に口からこぼれ出た。やっと二階堂を見ると、表情が変わっている。まるで何かに押しつぶされそうなのを懸命に堪えているようだった。
「あなたに似ている亡くなった友人というのは、フィアンセだったんです」
 二十代の半ば頃、ちょうど今の加奈ぐらいの年齢の時に、二階堂は学生時代から付き合っていた彼女と結婚するはずだったという。水中写真家だった彼女は、年に何度も海外の海を撮影に行っていた。二階堂は親が残した資産をもとに、そんな彼女の活動をバックアップしていたらしい。
 彼女とはいずれ若いカメラマンたちが自由に個展を開けるスペースを作ろうと話していた。親が敷いたレールではなく、自分で事業を興すこと。二階堂はその夢を、彼女と一緒に実現していきたいと話したそうだ。プロポーズだった。彼女も快諾したという。
 二人の披露宴は、そのスペースのお披露目会にする予定だった。そう決めて工事に着手した矢先に、彼女は撮影先の空港で起きた爆破テロに巻き込まれて命を落としてしまったのだそうだ。
「彼女が亡くなって、作りかけだったその場所は封印してしまいました。資産価値のある土地だから定期的に手入れはさせていますが、これまでは貸すことも売ることも考えなかった」
 そう語る二階堂の声には、まだ癒されていない深い哀しみの響きがあった。遠い国の出来事だと思っていた紛争が、実は身近に影を落としていたのだと加奈ははじめて思った。彼もまた、自分の居場所を探している一人なのかもしれない。そんな思いが、加奈の心に浮かんだ。
 どれぐらい時間が過ぎただろう。気がつくと、二階堂はもとの穏やかな表情に戻っていた。カップのコーヒーが空になっている。加奈も同じだった。
「イルカって癒されますよね。彼女はイルカが好きでした。好きだから似ていったのかもしれません」
 二階堂はそう言うと、空のカップをガラステーブルに置いた。
「ひとつ提案があるのですが、その物件をこれから一緒に見に行きませんか」
 続けてそう言うと、すでにソファーから立ち上がって見るからに高そうなコートを羽織っている。加奈に選択の余地があるとは思えない素早さだった。
「今も、彼女が撮ったイルカの写真が展示されているはずです。管理している業者には、今日行くからと連絡しました。あなたにぜひ見て欲しいんです」
 頷かない訳にはいかない押しの強さだ。加奈が了解すると、二階堂は早速駐車場へと向かった。嬉しそうな表情になっている。不動産屋の社長と女子社員が見送りに出て来たが、挨拶もほどほどにして加奈を車に乗せた。向かう場所は駅の反対側になるらしい。
「例のビルよりは駅から遠いですが、ショップにしても有望な場所だと思いますよ」
 ハンドルを握りながら、二階堂はそう言った。まさか借りられなかった部屋の代わりにその物件を貸してくれるというのだろうか。加奈はそう訊きたかったが、怖くて言葉に出来ない。まさかそんなことを言う訳がないという常識的な感覚が、膨らみはじめた期待感を押さえつける。だが、加奈の常識はあっけなくひっくり返された。
 大通りから一本裏に入った道の脇に、目的の物件はあった。オーナーの訪れをずっと待ち続けていたように、シャッターがあがっている。入口と一体になった一面のガラス壁からは中の様子がはっきりと見えた。有名な建築家が設計したという。建築学科だった加奈には、一目で誰の設計だか分った。とても良く似たコンセプトの美術館があったからだ。
「どうぞ、ここを使ってください。きっと彼女も喜ぶはずですから」
 二階堂はそう言うと、加奈を入口から奥へと誘う。壁には、亡くなった彼女が撮影したというイルカたちの写真が掛けられていた。このイルカたちは、今でも亡くなった彼女を見つめている。きっと二階堂もそうなのだと加奈は感じた。
「ありがとうございます。店の名前が浮かびました」
 訪れてからどれぐらいの時間が経っていただろう。ひと際大きな号数の写真を前に、加奈は二階堂にそう言った。その写真に写るイルカは、まるで水中に立っているように真っ直ぐ加奈と二階堂を見つめている。
「あなたがこの場所につけたいのは、何て名前ですか?」
 二階堂が訊く。はじめはデルフィーノにしようと思ったのだと加奈は答えた。イタリア語でイルカのことだ。英語でドルフィンというのも一般的過ぎると思ったからだ。
 今、壁に掛けられている写真は出来るだけそのまま使わせてほしいと加奈は言った。「もちろん、願ってもないことです」と快く二階堂が了承する。だが、加奈はまだ質問に答えていない。二階堂は少しじれた表情で、加奈の答えを急かした。本来は表情の豊かな人なのだと思いながら、加奈は二階堂の目を見つめた。
「アクアーリオにします。イタリア語で水族館。陸に生きる者たちも海に生きる者たちも、ここがみんなの居場所であるように」
 そう言うと、加奈は早速スケッチブックをひろげた。
「まだお時間ありますよね」
 返事を待たずに、加奈は鉛筆を走らせていく。具体的な店のイメージを由美とも共有したいと思ったからだ。そんな加奈の様子を眺めながら、二階堂の思いは写真の中のイルカたちと一緒に泳いでいる。加奈にはその水音がはっきりと感じられる気がした。
 今日からこの場所が自分の居場所になる。そしていつまでも変わることなく、二階堂の居場所でもあってほしい。加奈には様々な事がここから始まるのだという確信があった。誰かがそのことを耳元で伝えている。
 描いていくスケッチブックの上に海面のような光の粒子がきらめいて見えた。もしかしたら、今は遠い世界の住人になったイルカに似ているという人からのメッセージなのかもしれない。加奈にはそう思えて仕方がない。
 心は声をかぎりに叫んでいた。これからが自分の求めていた本当の自由なのだと。ふと顔をあげると、何百というイルカの群れが、一斉に空間の中にたゆたう海を泳いでいた。その中心に、加奈と同じように一歩を踏み出そうとしている二階堂の姿が見える。
 遠目に見ると、二階堂の顔も案外イルカに似ていた。そうか、もうとっくに始まっていたのだ。なぜかため息がもれた。運命なんてこんなものなのだとひとり言がこみ上げてくる。
 加奈は床にスケッチブックを置くと、二階堂の方へとゆっくり歩き始めた。イルカたちの笑い声がけたたましく心の奥に響いていた。

※イルカに似た人と縁があるようです。その中には悪縁だと思っていた人もいましたが、立ち止まって振り返ると、実はすべてが良縁だったのかもしれません。今、近くで心の支えになってくれている人もイルカに似ています。
約12000字の物語を最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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