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蜃気楼のなかを歩む

昨日、春の陽気にさそわれて、母親と散歩にでかけました。
向かったのは、近所の川沿いの道。

昨年の夏頃に、今住んでいる家に転居しました。
引越してきたばかりの頃、所用がありタクシーに乗ったのですが、ドライバーの方との雑談のなかで、越してきたばかりでこの辺りの地理に不案内であることを伝えたところ、「これね、川沿いに植えられてるの全部桜の樹なんですよ。満開になったらすごく綺麗なんだけど、地元の人しか来ない場所なんで、穴場ですし、春になったらぜひ見に来てください」と教えてくださったのです。

春になったら、この道を歩きに来ようと母親と話していたので、半年間ひそかに楽しみにしていました。
折良く満開のときで、「きれいやなぁ」と互いに言い合いながら歩いていたところ、「あと何回母と一緒に桜をみることができるのかな」と、ふいに思ったのです。

桜を見ながら、茨木のり子さんの詩「さくら」を脳裏に思い浮かべていたので、そんなことを考えたのでしょうか。

今年も生きて

さくらを見ています

ひとは生涯に

何回ぐらいさくらをみるのかしら

ものごころつくのが十歳ぐらいなら

どんなに多くても七十回ぐらい

三十回 四十回のひともざら

なんという少なさだろう

もっともっと多く見るような気がするのは

祖先の視覚も

まぎれこみ重なり合い霞(かすみ)だつせいでしょう

あでやかとも妖しとも不気味とも

捉えかねる花のいろ

さくらふぶきの下を ふららと歩けば

一瞬

名僧のごとくにわかるのです

死こそ常態

生はいとしき蜃気楼と

茨木のり子「おんなのことば」より

この詩を知ってから、毎年桜を見るたびに「あと何回わたしは桜を見るのかな」と心のうちで思うようになったのですが、「母と一緒にあと…」ということは今年はじめて思いました。

年をかさねるに従って、末尾の「生はいとしき蜃気楼」ということばが重みを増していくように感じる今日この頃です。


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