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王朝ご長寿列伝【藤原彰子、佐理女の話など】

87歳まで生きた藤原彰子

昔の人は現在よりも寿命が短かったといわれますが、平均寿命についてはそのとおりであっても、長生きする人も当然いました。

平安時代、『源氏物語』の作者・紫式部が仕えた上東門院(藤原道長の娘・彰子。一条天皇中宮)は90歳近くまで長生きしました。
後の人からは「めったにない幸運の人だが、あまりにも長生きをしすぎたのが玉に瑕(きず)だった」などと言われたり、彰子自身も子に先立たれた時に、「『長生きしすぎたからこんな憂き目にあった』と周りから思われているだろうことも辛い」と言っています。

『栄華物語』には彰子が天寿をまっとうしたときの、こんなエピソードも掲載されています。

藤原彰子(上東門院)

亡くなる間際まで頭脳明晰で、一族のみんなから頼りにされ、残していく者たちのことまで思いやって。
ご本人には不本意な長生きだったかもしれませんが、現代の目から見ると、理想的な亡くなり方のように感じられます。

90歳過ぎまで生きた藤原佐理の女

藤原佐理女

こちらは90歳過ぎまで存命だった、藤原佐理女(ふじわらの すけまさの むすめ)のエピソード。同じく『栄華物語』に載っています。
佐理は平安時代の書の名人・三蹟のひとりですが、同じ三蹟に数えられる藤原行成(ゆきなり)の娘たちも、美しい字を書くと当時評判でした。
行成の娘で、道長の息子・長家に嫁いだ女性は若くして亡くなっていますが、『更級日記』の作者はまだ幼いころ、この女性が書いた文章を、習字のお手本として与えられています。

また源顕基(あきもと)に嫁いだ行成の別の娘も、字がうまいと評判で、上に紹介した歌合の清書役にも当初、佐理女とともに選ばれていました。
都合が合わず彼女はこの役を辞退しましたが、佐理女と行成女の文字による競演が実現していたら、さぞかし評判になったことでしょう。

107歳まで生きた四条貞子

さて、時代は少し下がりますが、鎌倉時代にはなんと、107歳まで生きた女性もいます。
北山准后(じゅごう)と呼ばれた四条貞子がその人で、平清盛の曽孫にあたります。娘ふたりが入内し、うちひとりがのちの天皇になる御子たちを産んだこともあり、貞子は晩年になっても世間に非常に重んじられました。
90歳になったとき開かれた祝賀の盛大さは、『増鏡』などに詳しく取り上げられています。

四条貞子(北山准后)

ほかにも、後冷泉天皇(彰子が産んだ後朱雀天皇の子。彰子にとっては孫に当たる)の皇后である、藤原寛子(道長の嫡男・藤原頼通の娘)は92歳まで生きましたが、これは昭和天皇の皇后さまが97歳まで崩御されるまで、后としての歴代最高齢記録だったそうです。

頼通(よりみち)の妻・隆姫女王は93歳まで生きましたし(頼通も83歳の長寿をまっとう)、白河天皇の女御・道子は91歳、道長と同時代に生きた小野宮・藤原実資(さねすけ)も90歳まで生きています。
とはいえ、ここまで長生きする人がごく一部だったのも事実。

あくまで私の印象であってきちんと調べたわけではありませんが、ご長寿だった方々は大酒飲みではなさそう、かつ生真面目な性格な人が多いな、と感じます。
この時代は糖尿病由来の病に苦しみ早死にした貴族が多数いましたが、今と違う製法の、糖質が多いお酒を飲んでいたようなので、その飲み方ひとつでその後の人生が大きく分かれたのかもしれません。

頼通の父親世代には豪快な酒豪エピソードが知られる人がたくさんいますから、この世代の人たちは大人しい息子たち世代を見て、「近頃の若い者は酒もろくに飲めん」とか愚痴をこぼしていたかも?
現代のおじさん世代もつぶやいていそうな言葉ですね。

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