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渦 第15話

契約をかわした

仕事は続けて、何か多く激変したことはない。時間が状況をおさめ

何も変わらず日常が続いていた。出会った女性が家族が違う地へ向かうため

去った。これは少々寂しかったが、役目が終わったのだと感じた。

しかし、儀式の必要がなくなった。

さらに時がたち、私の人生を私は楽しめているのだろうか?と考えるように

なった。どうやって生きようと考えていたが、どう生きてみようかと

考えるようになった。この違いをわかるだろうか?

仕事を辞め、旅に出ることにした。そう渦におびえる生活が何故か終わりを迎えていたのだ。どこで何か特別なことをしたわけじゃないのだ。私の中にしかわからない感覚だが、体の中にいた渦の存在はいるのはわかるが動かなくなったのだ。体を突き破るようなことはなくなった。

動かなくなり成長をとめた渦に恐怖感はなくなり、人生の半分を渦との闘いの中にいたことに初めて気づいたのだ。風とは優しく吹くものだと気づいたとき、初めて自由とはこういうことなのだと感じた。

さて、これからどうしよう。と考えたとき自然と旅に出ようと思った。沖縄からスタートし北海道まで日本を堪能することにした。

2か月短期でその地域で働きながら旅をつづけた。地域によっては初めから家族のように入れてくれる人、ぎこちない人、丁寧な人、若々しい人、嫌みな人、たくさんの地域の人と触れ合った。

不思議と他者から見えている私の印象は変わっていた。何がそうさせているのかはわからない。知る必要がないだろう、それは私に必要がないからだ。

今死にたいと思っている若者に

自分の存在価値がないと思っている。この世の中に私は必要ではないと考えている。誰かに評価されないから存在の価値がないとするならそれは視野が著しく閉ざされていることなのだと思う。評価されることが存在価値なのだとすれば人口の半分以上は価値がないのではないだろうか?そしてそんなものが存在価値になるような世の中なら大したことがない世の中なのだ

人は人が思っているいる以上に貴重な存在であり、弱い生き物なのだ絶滅危惧種のように。

絶滅危惧種を守る必要性はなにか?森のバランスを保ち地球の生存を保つからだ。人の場合はもっと動物よりも広いところでバランスを保つために必要な存在なのだとしたならどうだろう。

以前にもお話したが、生きている期間と死んでからの期間は死んでからの期間のほうが長い可能性が高いと考えれる。生きているうちに何かを取得する必要があり、それを死んだ後必要なパスポートでその取得したものを必要と待っている誰かが死んだ後にいるとしたらどうだろう。

いまの話には確証はない。でも生きているうちに痛む思いは死んで消えることはない。死んだら楽になる。天国へいける

本当にそうだろうか?動物と一緒だろうか?人には知識がありその知識を応用する力があり、選択できる自由があるのだ。選択できる自由を与えられた人間が動物や自然と一緒だと考えるほうが無理がある気がする。

再生も破壊も選択できる私たちに生きているうちに必要とされていることはもっと違う気がする。

生きているうちに得た傷は生きているうちにしか解決できない

困難と闘うも逃げるも選択自由だ。逃げて得ることも必要だ。

誰かと競ったり、戦ったりする必要は特にないのだ。問題は自分自身の問題からは逃げずに探すことだ。

渦と戦うことで得たものはたくさんあったのだ。この時間を無駄な事と思うだろうか。もっと早く勝てていれば楽しいことがたくさんあったと思うだろうか?いいや、私にとってはベストなタイミングと期間だったのだ

この話を読んでいただきありがとうございました。

少しでも希望を探す力になれば幸いです。

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