Ryota Saito

「葛藤と挑戦と考究の旅」Hiraku Lab, Hiraku Space - 代表|一…

Ryota Saito

「葛藤と挑戦と考究の旅」Hiraku Lab, Hiraku Space - 代表|一橋大学 SDS教育研究推進センター - 客員研究員|静岡県立大学 CEGLOS Study CIRcle - mentor|慶応義塾大学 KGRI|国立市・こども協議会

マガジン

最近の記事

  • 固定された記事

『まちづくりの思考力』を読んで

 藤本穣彦さんの『まちづくりの思考力』を読みました。そして、とてもありがたいことにブックトークイベントをひらくスペースで開催いたしました。今回は、読んで考えて聞いて話したあとに考えたことを書きつけてみたいと思います。  ひとことで言うとどんな本なのだろうと考えてみたけれど分からないかもしれません。しかし、生きる―それもただ漫然と生きるのではなく―周囲で起こっていることを丁寧に、精緻に見つめながら、そこにいる人たちと共同して生きていくことを考えている本であると言うことはできると

    • 社会的弱者についてのちょっとした考察

      1.社会的弱者とは何か(1)社会的弱者の定義  「社会的弱者」という概念がある。全国公益法人協会によれば、「社会的弱者」とは、以下のような人を指す。  「著しく不利な状況や不利益な状態に置かれる者」のことを指すことから、マイノリティ概念に類するものであろう。ここでは、①学歴による不利、②ジェンダーによる不利が例として挙げられている。①学歴による社会的弱者の場合、各学校(とりわけ大学)の定員が決まっており、すべての人がトップの学校にはいれるわけではないため、数的なヒエラルキ

      • 民主主義と思考に関する予備的考察ー表現の自由と拙さと選挙

         この記事は、参議院選挙前の2016年6月23日に投稿したものを、一部修正して採録するものです。7年経って見直してみても今と考えていることはあまり変わっていなくてびっくりしています。当時からブレていないのか、進歩していないのか、いまいち分かりませんけれど笑。来月には統一地方選挙が実施されます。どのように向き合っていくのか、正直、いまだに分かっていませんし、今となっては後述するほどラディカルに見ているわけでもありません。  ただし、投票権は行使することに意味があるのではなく、み

        • いじめとは何かについての序論

           今回は、「いじめ」についてである。故あって書き出したのだが、詳細はまだ書けそうにない。とりあえず、この今年4月から翌年3月までは、「いじめ」についての考究は続きそうである。とりあえず、今回は「いじめ」を調べ、考えだして1カ月弱のいま辿りついているところを記録しておこうと考えている。 「いじめ」の定義の変遷 「いじめ」の定義について文部科学省・政府の資料を調べてみると、どうやら変遷があるらしい。なお、変遷は文部科学省による「いじめの定義の変遷」(クリックすると PDF ファ

        • 固定された記事

        『まちづくりの思考力』を読んで

        マガジン

        • ブックトーク
          1本
        • コラム
          10本

        記事

          映画「彼女が好きなものは」を観て

           性的少数者に対する配慮のない発言がメディアを騒がせている。このような報道が出るのは、べつに新たに差別的発言が出てきているからではない。日常的にその種の発言をするひとたちが一定数は間違いなく存在しており、たまたま報道のやり玉にあがったのである。これらの発言は、とりわけ当事者にきわめて大きな心的負担を与えるものであり、わたしは多とはできない。しかし、そのような差別的発言をする人びとのことを根底から否定することはしない。というのも、彼らの生きてきた時代は、「同性愛はきもちわるい」

          映画「彼女が好きなものは」を観て

          スケートボードから知るストリートカルチャー

           兵庫県にスケートパークをつくるためのクラウドファンディングが実施されており、無事に達成されたようです。とても嬉しい気持ちになったため、この文章を書きつけてみます。 スケートボード「不毛の地」 アフリカはスケートボード「不毛の地」と言われていました。ところが、ウガンダでは、スケートボードの人気が爆発してます。その中で、あたらしいボードを買った若者たちがお下がりを年少者に与えたり、みんなで共有しあったり、みずからの表現の中で輝きを持つようになっているようです。しかし、「スケー

          スケートボードから知るストリートカルチャー

          あえて「働かない」合理性についての序論

          労働はオーバーアチーブである 「労働」とは、本質的にオーバーアチーブである。賃金と労働が=(イコール)の関係で結ばれることはほとんどありえない。人間は、賃金に対してつねに過大なはたらきをしなければならない。30万円分のはたらきをして、30万円を手にするのでは会社はつぶれてしまう。すくなくも50万程度のはたらきを見せていなければ30万円を手にすることはできない(あるいはもっとかもしれない)。  人間は、賃金以上にはたらく傾向をもつ。それが人間の「働く」ことにともなう条件である。

          あえて「働かない」合理性についての序論

          「わたし」とは何かという問に対する少考

          アウグスティヌスによる「わたし」 「わたし」とはなんだろうか。この問の淵源はいくらのぞきこんでも容易には理解できない滋味がある。この問に対し、聖アウレリウス・アウグスティヌスは、はじめに問を発し、もっともよくこのことを知っていた人だと言われている。  彼は、"Who am I ?" と "What am I ?" の問を分けた。前者は人間がみずからに向ける問であり、後者は人間が神に向ける問だと言う。  そして二つ目の問は、神に向けられる。  人間とは、人間そのものである

          「わたし」とは何かという問に対する少考

          赦しと約束の力―意見にもとづく同意について

          赦しの力 ハンナ・アーレント師は、「意志」を自発性や選択の自由とリンクさせて考えていたようです(『精神の生活』)。彼女の言う、「意志」とは、未来に向かう能力のことを意味しており、あたらしいことを始める力を下支えするもののことです。他方で、「意志」には、命令する力があり、主権のようにひとつの意志に収斂することを批判します。  ここで言う、人間の内側から生起する「意志」が「自由」と両立するには、自分に可能なことを他者との関係の中で―それも信頼関係の中で―追及する場合に限られます。

          赦しと約束の力―意見にもとづく同意について

          ドラマ「ウ・ヨンウ弁護士は天才肌」を観て

           人気があるとのことで作業しながらドラマ「ウ・ヨンウ弁護士は天才肌」を観る。できれば吹き替えで観たかったのだが字幕しかなかった。そのため、ブラインドタッチで文章を書きながら観るはめになった(誤字だらけになってしまったトホホ)。  全体的にはライトで観やすい作品なのだが、5話の壁にかかっている法律家の倫理綱領が、向日葵の絵(金運を意味するらしい)に取って代わられる描写がとても印象的である。これは、弁護士が拝金主義に陥り「法律家としての良心」を失うことに対する壮絶なアイロニーを

          ドラマ「ウ・ヨンウ弁護士は天才肌」を観て

          「ぼくはうみがみたくなりました」をまた観たくなりました

          映画「ぼくはうみがみたくなりました」を観た 昨日、映画「ぼくはうみがみたくなりました」を観ました。自閉症の主人公とその周囲のひとたちの関わりを、それも1~2日程度の時間を描いた作品です。この限られた時間の中で、白血病で恋人を失っていたヒロインが、「自閉症」に関する認識の誤りを認め、変わっていく、そして喪失を埋めていく物語です。  主人公とヒロインは、ひょんなことから出会い、旅に出ます。その道程で主人公が昔通っていた保育園の園長と行動を共にします。そして、旅館に泊まります。じつ

          「ぼくはうみがみたくなりました」をまた観たくなりました

          不要な虚構についての少考

           一昨日、「虚構」と「現実」についての文章を書いた。読み返してみたら、なんだか「虚構はあっていいんだ!」と誤解を受けそうだったので、留保をつけようと思い、続編に着手することにする。  「虚構から逃げることについて」では、以下を例示として挙げた。 国民国家 母性愛 家父長制 トリクルダウン 自然状態 客観性 信念 (ブランド品の)価値 女らしさ / 男らしさ 社会 貨幣  そのうえで、虚構や幻想の有用について話した。しかし、そうすると上記の虚構は有用で

          不要な虚構についての少考

          虚構から逃げることについて

           さて、急に書き出した。何を書くかはまだ決まっていない。何かを書こうと動き出したのだ。しかし、なにを書けばいいのかについては、さっぱり分からない。そんな時に考えてしまうことがある。「書きたい」と動き出した私の動機は”虚構”なのではないか、である。  なるほど。虚構は、そこにあるように見えて内実、なにも含有していない。それが虚構である。  じつは、社会に関わる虚構は数限りなくある。 国民国家 母性愛 家父長制 トリクルダウン 自然状態 客観性 信念 (ブランド

          虚構から逃げることについて

          民主主義における「自由」とは何か?

           今回の記事は、6月26日に開催したハンス・ケルゼン『民主主義の本質と価値』の輪読会の内容をサマリー的にまとめたものです。 1.民主主義の理念 民主主義の理念には、ふたつあると説きます。ひとつが「自由」の概念、もうひとつが「平等」の概念です。  「自由」とは、「社会状態がもたらす強制に対する反感であり、自分の意志を屈従させる他者の意志に対する抗議、他律(Heteronomie)の苦痛に対する抗議である。こうして自由を求めて社会に叛逆するのは、人間性そのもの」のことです。この

          民主主義における「自由」とは何か?

          どこへも行けない僕らへ

           ある日、私は、自分が生まれて、育って、そして出て行った街に立っていた。そこには、たくさんの仲間と思い出と、そして1~2人の心安らぐ親族がいた。私は、彼らを捨てた。いや、自分の目指しているものに向かって、街を出たと言っても、あるいはいいのかもしれない。しかし、すくなくとも、彼らへの別れのあいさつもそこそこに、逃げるように出てきたことは疑いようがない。ただ、べつに逃避したわけでもない。  たしかに、陰惨な記憶がびっしりとこびりついた街からはやく出たかった。しかし同時に何物にも

          どこへも行けない僕らへ

          国立市での「抗議」を見て

           国立市で「表現の不自由展 東京2020」が実施されている。この件に関して、デモンストレーション?が行われている。  わたしも、今日、その「抗議」が行われている国立市のくにたち市民芸術小ホールの周囲を見てきた。そこでは、以下のような言葉が飛び交っていた。  「国立市で行われている「表現の不自由展」は、南朝鮮の手先によって仕組まれたものであり、表現の自由によって、そしてそれを逸脱したものによって成立している、そんなヘイトスピーチはやめさせるべきであるし、それを認めるのであれ

          国立市での「抗議」を見て