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食記帖

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料理家細川亜衣さんが綴る、日々の食日記。

細川さんの、食物を見るまなざし、扱う手つきをイメージする。
眺め、そっと触れ、崩さないように、そのものが、いちばん美しくおいしくテーブルに供されるように、素材のたたずまいに目を凝らし、声を聴く。
彼女の「料理」とは、空気を作っているようだ。

例えば、こんな一節。

白菜の蒸し煮 
ついに白菜の芯に近いところを食べられる日を迎えた。何という贅沢。白菜もキャベツもセロリも、ここまで辿り着くのがいつも楽しみでならない。適当にちぎって鍋に入れ、赤ねぎ、細長い唐辛子、えごま油、粗塩を加えてふたをし、熾き火になったストーブの上で蒸し煮にしてみる。絵ごま油であえた生の白菜サラダもすばらしいが、これはまたちょっと信じがたい味わいだ。
                     『食記帖』細川亜衣 p.313

特別に高級な食材を使うわけでもない。土地の豊かな恵みを受け取り、その良さを引き出す手際と時間。つまり、「生活」そのものなのだが、それが本当に美しい。
そして、彼女のそのスタンスが、娘さんへの眼差しにも感じられる。一人娘の椿ちゃんを眺める目は、静かにやさしく、決して干渉的ではない。自然の中で健やかに育ち、同じものをおいしいと感じる娘の味覚を喜ぶ。一定の距離感。

「食べる」とは、咀嚼し身体に取り込むことで、そのものが自分の一部となる、一体化する行為だ。私たちはたぶん、一人一人が、世界とのつながり方を模索している。作り、共に食べる。それも、一つの確かなつながり方の形だ。

静かすぎるここでの暮らしの中で、日記を綴っている時だけ不思議と生きている実感が湧いてくる。
日々の堆積を記すことに意味などないのかもしれない。それでも私はきっと、ずっと書き続けてゆうだろう。
                                                               『食記帖』細川亜衣 p.341

あとがきの一節が心に残る。「書く」こともまた、つなぎとめ、つながることを可能にしてくれる、それを、細川さんが感じていることが、とても嬉しい。


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