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偏差値40の父親が娘を東大に合格させたたったひとつの方法



鳶が鷹を生む

娘が大学に合格した。東京大学。
父親のぼくは、城西大卒。
母親(つまりぼくの奥さん)は、日本女子大学を卒業。
城西大学をググってみると、偏差値は37.5。ぼくが入学したときは、もうちょっと高かった気もするんだけど。本女は55ですか。
そんなワケで、まさか娘が東大を受験することになるとは思っていなかったし、東大を目指すような準備をした憶えもない。

ぼくの勝手な希望としては、都立大学に進学して欲しかった。
都立大に行って宮台ゼミに入り、宮台をギャフンと言わせる。それが、ぼくの夢。
学生時代からいま現在に至るまで、ぼくのアイドルは宮台真司。

共通テストが近づいたある日、娘を激励した。

「大丈夫だって。オマエの場合は、共通テストの点数が低ければ低いほど、合格に近づくんだから」
「えっ、どういうこと?」
「大学都構想を提案したい」
「は?」
「第一志望を東京大学から東京都立大学に変更すれば、楽勝だろ」
「…」

そんなカンジだったので、決して狙って東大に合格させたわけではない。
結果論としての東大合格の要因。単なる感想文。


東大合格に必要なこと

娘の成績に違和感を覚えたのは、中学3年になってからだ。それまでロクに見ていなかった成績表を眺めて驚いた。
良すぎる。

もちろん、無事に高校へ。
高校で、違和感は疑念に変わる。
最初の懇談会。

「このまま行けば、旧帝も狙えます」

担任の先生のその言葉に、旧帝国大学に進学した30年前の同級生の顔が、走馬燈のように蘇る。
ウソでしょ。ぼくが当時の秀才連中を買いかぶりすぎなのか、娘の能力を見誤っているのか、それとも全体のレベルが低下しているのか。

興醒めかもしれないし、そんなことは周知の事実かもしれないけれど、合格難易度という意味での大学のレベルは、軒並み落ちている。
もちろん、原因は18歳人口の激減。
ぼくら団塊ジュニア世代から半減。

子がいる知人の何人かが異口同音に

「ウチの子は大して勉強しているようには見えなかったけれど、それなりの結果が残せている。親の知らないところで頑張っていたんだろうね」

というようなことを言っていた。
もちろん全員ではないけれど、多くの子が、名前だけを聞けば親よりも良い学校に合格している。
合格難易度の下落。それは東大とて例外ではない。

だから、東大合格はすごいと言えばすごいのだけれど、でも、そんなにすごくはない。
ぼくら世代がイメージする東大よりも、だいぶ割り引いて考える必要がある。

という前提で、身も蓋もない結論を述べてしまうなら、東大合格のために必要なのは、「能力×勉強量」の値が、一定の水準を超えることなんだろうと思う。
東大合格者の能力の平均値を100。東大合格者の勉強量の平均値を100とするならば、
100×100=10,000
10,000ポイントを超えれば、東大合格だ。
150の能力があるなら、66.7の勉強量で合格圏内(150×66.7=10,005)。80の能力しかなければ、125の勉強が必要となる(80×125=10,000)。
50の能力であれば、200の勉強量(50×200=10,000)。しかし残念ながら、東大合格者平均の2倍の勉強をすることなど、物理的に不可能だ。
だから、誰もが東大に合格できる、というわけではない。

では、東大合格に求められる能力とは、如何ほどのものだろうか。
田舎では、「天才」だけが東大に合格すると思われている。
ムリもない。
娘の卒業した(ぼくの母校でもある)県立高校は、地域トップ校ではあるけれど、東大合格者の輩出は(だいたい)3年に1人。学区全体での生徒数が1学年で1,500名程度だとすると、4,500名に1人で0.02%。合格者を「天才」と呼んでも、あながち間違いとも言えない。

しかしそれは本当だろうか。本当に一握りの「天才」だけが東大合格の資格を持つのだろうか。

ウチの娘をリアルに知る人なら、直ちに疑問に思うだろう。
アイツが天才?
ウチの娘の正当な評価は、バカじゃないとしても、とても「天才」ではない、というもの。親の欲目でも謙遜でもなく、それが妥当な評価だとぼくは思う。

では、いったいどれくらいの人間が東大に合格するだけの能力を持っているのか。実際の数字をもとに考えてみる。
先の共通テストの受験者数は53万人。東大の合格者は3,000人。同じく3,000名弱の京大と国立大医学部の合格者数も勘案すれば、およそ成績上位1%の者が東大に合格できると考えて良いだろう。

そして、能力の高い者が(たとえば東京などの大都市に)偏在することなく、全国にまんべんなく存在すると仮定すれば、田舎でも、やはり1%の人間は東大に合格するだけの能力を有することになる。
先述の通り、当該地区の生徒数が1学年で1,500名程度であり、大学進学率を5割とするならば、750名の1%、(トップ校の)上位7.5人が毎年東大に合格してもおかしくないはずなのだ。

しかし実際には、(3年に1人であれば)年平均0.3名。
なぜそんなことになってしまうのか。

それは恐らく、皆が0.02%の「天才」しか合格できないと諦めてしまっているから。毎年7.5名が受かってもおかしくないことを知らないから。やればできると信じなければ、誰もやらないだろうから。
今年の母校には、娘の他に東大に合格した生徒がもう1名いる。3年に1人の「天才」クンだ。
そんな「天才」クンに、娘は1度だけ、試験の成績で勝ったことがあるそうだ。

「まぐれとは言え彼に勝ったと言うことは、まぐれで東大に受かるかもしれん」

その気になって勉強したから娘は合格した。もちろん、地方公立進学校で上位7.5名程度の能力は持っていたのだろう。ちなみに、娘の学校での成績は3番。最後の通知表は学年で8位だったそうだ。
まずは、自分自身に東大合格するだけの能力があることを知ること。それが、ひとつ目の要因だろう。

つぎに、地方公立進学校の上位7.5番以内の能力を持っている者に必要なことは何か。言うまでもなく、それは勉強だ。
もっとも、娘の勉強の中身について、ぼくはほとんど承知していない。
高校の先生に薦められたという参考書なのか問題集なのか、その類の書籍は言われるがままに買っている。
Z会という通信教育の料金を振り込んだ記憶もある。
それらをどの程度やったのかは知らない。
夏期講習に行った友達に薦められたという理由で本人が行きたがったので、都内の予備校の春期講習に行かせたこともあった。一週間ホテルを取って通わせた挙げ句

「行かせてもらったのに申し訳ないんだけど、あんまり意味なかったわ」

と言われて閉口。

「まあ、そういうのも実際に行ってみないと分からないしね」

娘には甘すぎたかも知れない。

唯一ぼくが薦めたのが、英語塾に通うこと。理由は、その塾の経営者が同級生だから。
でも、だからと言って、通うことを強要したつもりはない。
そもそも、ぼくはその英語塾の経営者(=同級生)とはまったく主義主張が合わない。毎日更新しているという彼のブログをたまに読むけれど、まあ合わないね。彼はぼくとは正反対のタイプの人間だ。
ところが、娘は彼に心酔。親への当てつけだろうか。

「最後の授業で「これは大学入試のレベルを超えてるので知らないと思うけど」ってイディオムを知ってたんだよ。「なぜ知ってるの?」って聞くから「1年の頃、授業で先生教えてくれましたよね?」って答えたら、先生目を丸くして驚いてくれて。ちなみにdrop deadってイディオムで、ぽっくり死ぬって意味なんだけどね」

これだけで、如何に熱心に授業を聞いていたのかが分かる。

好成績を収めるために一番重要な科目は英語だろう。英語を避けて受験することはほぼ不可能だし、配点は大きいし、一旦実力が付いてしまえば安定して高得点が期待できるし。
そういう意味で、同級生の経営するその英語塾に通えたことは、ラッキーだった。
先に彼とは主義主張がまったく合わない、と言ったが、こと英語学習に関して、彼の言っていることは完全に正しい。ぼくはそう思う。

1回45分を週1でその英語塾に通えば東大に合格するのか、と言われればそういうものではないだろう。しかし熱心に授業を受ければ、合格に必要十分な英語力が付くことは間違いない。
最後の授業で彼は娘に、東大の2次試験について「(120点満点で)100点は取れる」と言ったそうだ。彼がそう言ったのなら、そうなんだろう。共通テストの英語の得点も、ズバリ当ててたし。
英語が100点なら、共通テストの結果とあわせて、受験前からすでに合格にかなり近づいていた、と今なら言える。

彼の指導の他は、すべて、高校の先生の教えによる。
進路を決定するための最後の保護者懇談会。担任の先生から

「高校の総力を挙げて全力でサポートします」

と言われている。
正確にはそういう台詞ではなかったけれど、少なくともぼくはそう受け取った。
事実、懇談会の以前から、各教科においてサポートを受けていたらしい。
そんなふうに世話になっていたので、予備校の春期講習に出てはみたものの「意味なかった」という結論に至ったのだろう。高校の先生で十分、どころか、もっと丁寧に教えてくれるのだから。

「高校の総力を挙げての全力サポート」を受けられたのは、娘が成績優秀者だったから、と思うだろうか。否定はしない。しかし、それだけではない。こういうことを言うと反感を買うかも知れないが、その高校で娘よりマジメに勉強に取り組んだ生徒は、ほとんどいなかったはずだ。他にマジメに取り組む生徒がほとんどいなかったから「全力サポート」が受けられたのだと思う。

娘が1年だったか2年だったか、保護者面談の日。娘と2人、廊下で順番を待っていた。ふと、廊下の片隅に数学のプリントが何枚か重ねて置いてあることに気付く。「ご自由にどうぞ。限定20部」という掲示と共に。

「オマエもこれやってるの?」
「毎朝やってるよ」
「ちょっと、何枚残ってるか数えてみて」
「1、2、3…14枚だね」

一般に、受験勉強のためのリソースは、都会に潤沢で田舎では貧弱だと思われている。たしかに、絶対数ではその通りだろう。しかしどうだろう。リソースがゼロでないなら、そのリソースを独占ないし寡占すれば、むしろ田舎の方が受験勉強に適した環境と言えるのではないか。
ともあれ、娘は「高校の総力を挙げての全力サポート」を受けてきた。
それによって成績が伸び続けたのだが、この「全力サポート」は、さらに思わぬ効果も生む。

「あんなに世話になったんだから、ここまで来て諦めることは絶対にできない。なんとか合格して先生たちにお礼を言いたい」

そういう思いは、間違いなくラストスパートの原動力だっただろう。

「感謝と恩返し」

隣の部屋で、ゲラゲラ笑いながら「半沢直樹」を観ていたぼくも、背筋が伸びる思いだった。


やる気があればなんでもできる

娘はマジメに勉強していたけれど、30年前のぼくは、どうしても勉強する気になれない、そんな受験生だった。
浪人時代の夏休み。やらなくてはいけないと強く思いつつ、どうしてもやれない自分に絶望していた。
もちろん、「怠惰」のひと言で片付けてもらっても、いまさら別にいいのだけれど、少なくともぼく自身の認識としては、怠惰などという生易しいものではなく、拒絶とも言うべき激しさで、勉強が手に付かなかった。
あの頃、なぜぼくは頑なに勉強を拒絶したのだろう。ずっと、そのことを考えてきた。
正直なところ、30年経っても、その理由はよく分からない。結局、自分自身のことは最後まで分からないのかも知れない。
かと言って、娘のことなら分かるというわけでもないのだけれど、机に向かう後ろ姿を眺めつつ思いついたことを並べてみたい。

勉強をやる気になる要因。ひとつ目は、優越感だろうか。
多くの人は、自分が他人よりも優れていると感じられれば、やる気になるハズだ。

ぼくも中学生の頃は、そこまで勉強が嫌ではなかった。ところが高校に入って落ちこぼれて以降、すっかりやる気をなくした。
地域トップ校に合格したということも優越感に繋がりはするのだけれど、その優越感は勉強には向かわない。通っている学校の名前がもたらす優越感は、あくまでも対外的なものであり、教室の隣の席の奴よりも自分の方が優れているという内なる優越感とは意味が違う。
よく言う「プライドは高く自己肯定感が乏しい」という状態は、勉強を拒絶するのかもしれない。
もちろん、人それぞれ。下から這い上がれるタイプの人もいるとは思うけど。

ふたつ目は、できないことができるようになる喜び。
これは、赤ん坊の頃から備わる、ある種本能的な感情だろうと思う。
できないことができるようになると嬉しい。やる気になる。というのは、ごく自然なことではないだろうか。

娘の英語は2年のうちにほぼ完成していた。2年の10月の英検で準1級に合格していたから。ところが、3年の後半のある時期に

「最近、リスニングが良く聴き取れない」

とこぼすことがあった。
一方、ずっと苦手だった数学は、それこそ本番直前まで、ちょいちょい

「あれ~。解けないはずの問題が解けちゃった」

などと言うことがあって、さすがに呆れたけれど。
娘の場合、英検対策を高2の夏休みに始め、それ以外の教科の受験勉強は、英検のあと(11月)からだそうだ。それこそ結果論でしかないけれど、そのくらいでちょうど良い気がする。早くに始めると、高3の時点で、できるようになる喜びがなくなってしまうと思う。

勉強をやる気になるふたつの要因。優越感とできるようになる喜びは、(多くはないにしても)少なくない高校生が持てているのではないだろうか。
持てているなら、そこそこの勉強はできているだろう。
しかし、そこそこの勉強では、東大に合格はできない。
東大合格のために必要な勉強。全国の成績上位1%に入るための勉強。
そんな勉強を可能にする、圧倒的なやる気が必要だ。

ぼくの大学のある老教授(30年前の「老教授」なので、まだご健在なら100歳近いだろうか。確か東大卒だったハズ)は授業中に

「わたしが若い頃は、ヒロポン打って勉強した」

などという供述をいきなり始め、笑わせてくれた記憶がある。
いまの日本で、まさかヒロポン打ってやる気になるワケにはいかない。

本人にやる気がなければ、それを上回る強制が必要だと考える親や指導者も出てくるのだろう。
やる気の有無など関係ない。やるのかやらないのか。やるしかない。やれ。それは、戸塚ヨットスクール方式。
でも、やる気になるための、簡単で確実な方法はあると思うケドね。

皆さんは、次のような問題が解けるだろうか。

問1)2021シーズンのJリーグが開幕した。清水エスパルスは開幕戦で、鹿島アントラーズに3-1で勝利。エスパルスの開幕戦勝利は6年ぶりだった。6年前のエスパルスが勝利した開幕戦の対戦相手とスコア、ならびに当該シーズンのエスパルスの最終順位を記しなさい。

問2)北川航也(SKラピード・ウィーン)は、2018年に日本代表に選出され(当時は清水エスパルス所属)、キリンチャレンジカップに出場している。出場した2試合で得点がなかったことから「FW失格」などと批判もあったが、一方で擁護する声もあった。ここでは北川を擁護する立場から、当該試合における北川のプレーについて述べよ。

ぼくには楽勝である。なぜなら清水サポだから。エスパルスが好きだから。

上記2問は、大学入試問題の改変だ。つまり、こういうレベルの問題が出題される。想像してみて欲しい。もし、受験科目に「清水エスパルス」という教科が存在したとしたら。
清水サポは喜ぶだろうが、他チームのサポ、あるいはそもそもサッカー(ないしはJリーグ)に興味がない人にとっては、上記のような問題に答えるためには、尋常ならざる努力、忍耐を要するだろう。
つまり何が言いたいのかと言えば、圧倒的なやる気とは、好きという感情によってもたらされる、ということだ。

しかしこれは、それほど特別なことではない。世に溢れるオタクと呼ばれる諸君も、好きという感情に導かれ、驚愕すべき知識量を誇るではないか。
これは、単なるベクトルの問題に過ぎない。
好きの方向が勉強を指していれば、すすんで勉強をするだろう。
では、どうすれば勉強が好きな子が育つのか。


親の仕事

東大合格のために親がやるべきこと。それは子どものやる気を出させること。

先に述べたように、優越感を持たせてやると良い。
その為には、背伸びした場所で勉強させようなどと考えないこと。
高いレベルの場所に所属させることよりも、落ちこぼれないことの方が、はるかに重要だ。落ちこぼれてしまうとやる気は失われるし、挽回することが非常に難しくなる。
もうひとつ。これも先述の通り、できるようになる喜びを感じさせたい。
その為には、早いうちに勉強させないことが肝要だと思う。
と言うよりも、(たとえば中学受験などで)子どもに勉強(に限らず、何か)を強要すれば、子どものやる気なんか雲散霧消してしまう。

ぼくも子どもに強制的にやらせたことがひとつある。
夏休みの読書感想文だ。

読書感想文を書かせることに、さしたる意味はなかった。
(ちょっとしたワケありで)ものすごく苦労して連れて行った旅行。その日記が、わずか2行、「どこどこへ行きました。おもしろかったです。」くらいで提出されようとしていて、ぼくがブチ切れたことがキッカケだったと記憶している。
それがキッカケ。あとはぼくの趣味だ。ぼくが文章を書くことも読むことも好きだから、という理由。

教育的意図などはなかったのだが、もしかしたら読書感想文をやらせたことが良かったのかもしれない、と最近になって思い始めている。

新井紀子が「AI vs. 教科書が読めない子どもたち」と「AIに負けない子どもを育てる」で主張するのは、読解力が学力に比例する、ということだ。
ただし、どうすれば読解力が上がるのかは、書かれていない。一般に思われるのとは異なり、どうやら読書はあまり関係ない、とは書かれているが、読解力向上の方法は、はっきりとは示されない。
ただ、なんとなく示唆されるのは、作文に効果があるのではないか、ということ。いやまあ、ぼくの勝手な解釈だけど。

一方で、娘はとにかくこの読書感想文が、嫌でたまらなかったらしい。
合格が決まって、なんとなく振り返りモードになった際、いかに嫌だったかを力説された。

読書感想文を強制的にやらせた見返りは、作文嫌いの誕生と、読解力向上の可能性。
収支決算はまだ出ていない。

娘は、英語と歴史が好きだった。
だからと言って、それらを好きになるよう、親として努めたわけではない。
英語が好きな理由はなんとなく分かる。とにかく発音が良いのだ。もちろんぼくには、その発音が正確なものかどうかは判断付きかねるのだけれど、実にそれっぽい発音。
他人からも度々

「帰国子女なんですか?」

と聞かれる。いいえ、純ジャパです。
耳がすごく良いのかな、という気もする。もしかしたら音楽方面の才能があったのかもしれない。ともあれ、発音が良いから自信が持て、その自信が好きという気持ちに繋がったのだろう。
歴史好きについては、まったく思い当たる節がない。

個別の教科に対する偏愛の理由は、正直なところ、よく分からない。
ただ、そのベクトルがどの教科に向かうかはともかく、勉強一般に対して向かった理由については、思い当たる節がある。
我が家の家風(と言うか、我々夫婦の好み)として、学問への憧れと学者へのリスペクトがあった。娘は、それを素直に受け取ったのだろう。

日本学術会議への任命拒否問題には憤慨したし、ことあるごとに学者を目の敵にする橋下徹のような人物を冷ややかに眺めている。ジャンルを問わず(いわゆるオタク的なサブカルであっても)教養には敬意を払ってきたつもりだ。
大学の恩師を、ぼくが如何に敬愛しているか、家族はみんな知っている。

多くの家庭では、学問に興味はなく、学者をバカにしつつ、学歴だけをありがたがっているのではないだろうか。そんな学歴厨な家庭で育った子に、我が子が負けるなんてことは(持って生まれた能力を度外視するなら)あるはずもないし、あって良いことではない、とぼくは思っている。
選抜する側の大学教授だって、努力と忍耐で勉強してきた学生より、好きで勉強してきた学生を採りたいんじゃないだろうか?

もし、我が子を東大に合格させたければ、(再三言うように、持って生まれた能力が足りなければ、どうにもならないのだけれど)勉強が好きな子に育てるのが最短ルートだ。
そして、勉強好きな子に育てるためには、親が学問を愛すれば良い。そういう部分で影響を与えられるのは、どうだろう、小学生までだろうか。しかし一方で、そのレベルは問わない。偏差値40の父親が愛するレベルで十分だ。


おわりに

いくつかの東大合格体験記を読んだ。親に殴られながら勉強し、中学受験をするというハナシだった。生活のすべてが勉強一色。泣こうが喚こうが、決して逃げられない。
控えめに言って、地獄。
フツーに考えると、自分の子どもが地獄を生きるとしたら、それは親にとって悲劇だろう。
しかし実際には、親がすすんで子を地獄へ追いやる。
その体験記によると、一部の本当に賢い学生を除けば、程度の差こそあれ、東大生の大半は、そんな地獄から生まれてきた受験モンスターだという。
都市伝説だろうか?

「ノーパンしゃぶしゃぶ事件(1998年)」の頃だったと思う。小室直樹は、相次ぐ官僚の不祥事について

「かつては優秀な子がいるとなれば村をあげて援助し、その子に勉強させた。その子は必然的に勉強させてもらった恩を返そうと、郷土のため、ひいては国家のために働こうとする。ところが、村をあげて援助するようなことがなくなった近年は、東大に受かったのはすべて自分の才能と努力の結果であるから、返すべき恩などそもそもないし、自分のために働くのは当然だ、となった」

という主旨の指摘をしている。
小室の指摘が正しいとすれば、受験モンスターの跋扈は都市伝説でもなんでもなく、事実なのだろう。
利他心よりも利己心が勝る。ロクでもない国だ。

ぼくは受験の実態について何も知らない。
ぼくが知るのは、我が母校である地方公立高校からは3年に1人しか東大に合格していない、ということ。そして、同じ地方公立高校に通う自分の娘が東大に合格した、という事実だけ。

ぼくの願いは、我が母校から、我が母校と同じような地方の進学校から、毎年ひとりでも多くの高校生が東大に合格していくこと。受験モンスターに負けないで欲しいということ。
受験モンスターでは勝てない、となれば、地獄に突き落とされる子どももいなくなるに違いない。
それが、斜陽国家ニッポンの日がまた昇る、唯一の道だと思う。
でも、娘を見る限り、それはそんなに難しいことではないような気がするのだけど。

「さようなら、すべての汎用ヒト型受験兵器」

初めての東大は
なんてことはなかったわ
私たちの子ども
もう勝手に勉強してたから
Can you give me one last kiss ?
もうひとり受かりましょう

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