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「外れくじ」の重み ― 障がい者に押しつけられた不自由

車椅子ユーザーの方が「イオンシネマで不適切な対応を受けた」としてSNSで告発。結果、イオンシネマは謝罪に追い込まれる、ということがありました。しかし、この一連の出来事に対するネットの反応が酷い。

投稿者への中傷が溢れかえっているのです。「車椅子ユーザーが過剰な要求をしている」「従業員に負担をかけすぎだ」など、一見もっともらしい意見も、よく読めば障がい者への無理解と偏見に満ちています。

しかもそのほとんどが、投稿者個人の資質や言動を問題視しています。

今年1月に起きた羽田の飛行機事故を思い出してください。あの時、「JFAS(航空安全推進連絡会議)」が緊急声明を出し、「事故原因の特定を目的とした警察の捜査が、事故調査に支障をきたした」と指摘しました。「最も優先されるべきは事故調査であり、刑事捜査ではない」と訴えたのです。

多くの人が、この主張に賛同したはずです。なぜなら、事故の再発防止には、犯人捜しではなく、原因究明が不可欠だと理解しているからです。今回のイオンシネマの件も、「個人の資質や言動を問題視するのではなく、社会全体の問題として捉えるべき」という点で、まさに同じことが言えるでしょう。

仮に今回の車椅子ユーザーの方の言動に問題があったのだとしても、それは友人や知人がたしなめれば良い話であり、無関係の第三者が口出しすべきではありません。

SNSで発信し、世間に向けて問題提起をした以上、第三者からの意見表明は避けられません。しかし問いたいのですが、赤の他人が彼女を批判する目的は何でしょう?私には単なる憂さ晴らしとしか見えていません。問題提起した人を憂さ晴らしの対象として良いとは思いません。

個々の事例には固有の事情があるのは確かです。しかし、そうした個別の事情を超えて、障がい者個々人は社会的障壁に直面しています。社会的障壁が取り除かれてしまえば、そもそも個別の事情は関係ありません。

逆に、個別の事情の解決、今回の件で言えば、1)彼女の態度を改めさせる。2)イオンシネマが彼女にだけ特別な配慮をする。というような個別の解決を達成しても、社会全体としては何の解決にもなっていません。

社会的障壁が取り除かれれば個別の事情は関係なく、個別の事情が解決しても社会全体としては何の解決にもなっていない。よって、重要なのは個別の問題よりも社会問題の解決です。そして個別の問題の解決は、当事者以外には関係のない話です。さらに、社会的な問題を論じる際に、当事者の個人的な言動や資質を論じることは、そもそも間違っているのです。

繰り返しますが、SNSで刑事事件でもない個人の言動や資質を論評することは、無関係であるか間違っているかのいずれかです。個人攻撃は直ちにやめるべきでしょう。

さて、ここまで個人攻撃の愚かしさについて述べてきましたが、本当の問題は別のところにあります。

障がいとは、ある種の「外れくじ」のようなものだと私は考えます。

パラリンピックを見れば分かるように、障がいは必ずしも不幸を意味するものではありません。しかし、だからと言って、障がい者が日常的に直面する困難が軽視されていいはずはありません。

誰もが、生まれながらにして、あるいは人生のある時点で、障がいを持つ可能性を秘めています。そして、障がいを持つことになるかどうかは、まさに運命のくじ引きのようなものなのです。

問題なのは、私たち健常者が、その「外れくじ」を障がい者に押しつけているという現実です。

もちろん、私たち一人一人が、意図的に障がい者に不自由を押しつけているわけではありません。しかし、障がいを持つ人が一定の割合で存在することは、統計的に避けられない事実なのです。

そして、その統計的な確率論によって「外れくじ」を引いてしまった人は、望むと望まざるとにかかわらず、その不自由を引き受けざるを得ません。

障がい者にとって、自らの障がいは何かの罰ではありません。
そのため、彼らにはその不自由を引き受ける理由も、納得のいく説明もないのです。
ただ、諦めるしかない。そして、その不自由と、向き合い続けるしかないのです。
こうした不自由を強いられる障がい者の存在を考えれば、私たち健常者は、自らの恵まれた立場に申し訳なさを感じずにはいられないはずです。

多くの人が、「バリアフリー社会の実現」や「共生社会の実現」といったスローガンを掲げます。しかし、そんなスローガンは、「外れくじ」を引いた障がい者にとっては、空々しく響くのではないでしょうか。

むしろ私たちがすべきなのは、「外れくじ」を引き、不自由を引き受けざるを得ない障がい者の存在を、もっと真摯に受け止めることでしょう。
彼らに対して、私たちは申し訳なさを感じるべきです。

「外れくじ」を引いていない者の特権を自覚し、「外れくじ」を引いた者へ申し訳なさを感じる。そうすれば、いま目の前にバリアがあるのなら、それをどうすべきかは明らかなはずです。「過剰な要求をしている」のは、24時間365日不自由を引き受け続けている車椅子ユーザーではなく、そんな彼らの不自由さにほとんど関心を向けることのない私たちです。

「外れくじ」という比喩は、障がいそのものを指すのではなく、障がいを理由に社会的不利益を押し付けられる状況を表したものです。就職氷河期に就職活動を行わざるを得なかった人も、生まれたタイミングを理由に社会的不利益を押しつけられていると言えます。このように、社会のあらゆる場面に「外れくじ」は存在しているのです。

しかし、障がい者が直面する「外れくじ」は、その不利益の深刻さと長期性において、特に大きな課題だと言えるでしょう。だからこそ、障がい者の問題を社会全体の問題として捉え、構造的な解決を目指すことが重要なのです。

今回、当該の車椅子ユーザーを批判した者の中には、自分も「外れくじ」を引いたのに、なぜ障がい者の「外れくじ」ばかりが注目されるのか、という思いを抱く者もいたかもしれません。確かに、障がいの有無にかかわらず、すべての人が社会的不利益を被る可能性はあります。

ですが、問題の本質はそこではありません。障がい者が直面する不利益の深刻さと長期性を考えれば、その解消に向けた取り組みを優先すべきなのは明らかです。

大切なのは、社会的不利益を抱える人々が互いの苦しみを理解し合い、共に「外れくじ」のない社会を目指すことです。そのためには、最も深刻な「外れくじ」を引いてしまった障がい者の問題から、優先的に取り組んでいく必要があるのです。

私たち一人一人が、社会的不公平さに目を向け、それを改善するために行動することが大切です。相対的に恵まれた立場にある者は、自らの特権を自覚し、社会的弱者の苦しみに想像力を働かせることから始めるべきでしょう。日常生活の中で障がい者の困難に想像力を働かせ、バリアを取り除くための行動を起こすべきです。それは、物理的な障壁の除去だけでなく、障がい者の声に耳を傾け、理解を深めることも含まれます。

車椅子ユーザーを叩いても、何も生まれません。それどころか、問題の本質から目を背けることにもなりかねません。

むしろ私たちがすべきことは、車椅子ユーザーをはじめとする障がい者が直面する問題の解消に、協力して取り組むことです。そうすることで、それとは違う次の「外れくじ」の解消に向けて、確実に一歩を踏み出すことができるはずです。


【追記】
このコラムをTwitterに投げたところ、ありがたいことにリプライをいただきました。そのやり取りを踏まえ、一部加筆修正しています。(2024/03/31)

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