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読書感想文「失踪の社会学」

読書感想文
「失踪の社会学」/中森弘樹/慶應義塾大学出版会

親密性と責任

本書ではまず、現代社会は自由であり不自由である、というパラドックスを指摘する。そして、その不自由さの原因は「親密なる者への責任」にあると結論づけられる。

私たちは日常生活において、責任という言葉を深く考えずに使いがちだ。
この本では、責任とは何であるかが丁寧に説明される。
責任という言葉の説明が、本書の最大のテーマというわけではないが、私としては、責任を「行為-因果モデル」「傷つきやすさを避けるモデル」と分けて考える説明に、目から鱗が落ちた。
また、「責任は帰結主義的に判断される概念」という視点は、私自身の子育ての経験や自営業者としての立場から考えても、強く同意できるものだ。

つづいて「親密な関係」の定義を見てみよう。
「親密な関係」とは「具体的な他者の生への配慮/関心を媒体とするある程度持続的な関係」とある。難解だ。
私の理解が正しいのであれば、「親密な関係」という語から一般的にイメージされる「きわめて深い関係」のような相対性は重要でない。取り立てて親しくもないクラスメート、ビジネスライクな同僚、すでに愛情の失われた夫婦、険悪な親子、いずれも「親密な関係」である。
いずれにしても「親密な関係」からの離脱には大きな抵抗感が伴う。どんなにゆるい自由参加のサークルであったとしても、「辞めます」と伝えることには抵抗を覚えるはずだ。
筆者は、その抵抗感の根拠が、呼びかけには応答しなければならないという「親密なる者への責任」にあるとしている。

「親密なる者への責任」が過負荷になると、責任を果たすことが困難となり、結果として責任を放棄してしまうのが失踪だ、との論旨は明快で、異論を挟む余地はない。
「親密な関係」からの離脱がもたらす抵抗感の正体を明かすことが、本書の目的であるならば、その目的は達成されていると言える。

失踪だけが可能性か

一方で、失踪についての記述には、疑問が残る。
筆者は「<失踪>が自殺に代わって人を「親密なる者への責任」から解放するという、僅かではあるが確かな可能性を示している」と述べる。
ここで、疑問が生まれる。筆者は「親密な関係」から離脱する方法として、失踪と自殺しか想定していないのだろうか。
失踪と自殺以外の可能性に触れなかった理由は読み取れなかったが、いずれにしろ、「親密な関係」からの離脱が、失踪と自殺の二択だとしたら、そもそもその前提はおかしいように思う。

たとえば夫婦間の場合、社会的・形式的な側面を除けば、離婚と失踪にはほとんど違いがないと言える。
妻が突然離婚届を突きつけてきた場合(離婚)と、いきなり家を出て行った場合(失踪)を、それぞれ我が事として想像してみても、個人的・感情的な部分での違いを見出すことは難しい。社会手続き上の負担は大きく異なるとしても、「奥さんに逃げられた」という事実と、そのことが惹起する感情は、離婚なのか失踪なのかに関係はないだろう。
離婚も(失踪と同じく)、夫婦という「親密な関係」からの離脱に他ならないはずだ。

本書では、「曖昧な喪失」という概念で、失踪と自殺の違いを説明する。
失踪が「応答が可能か不可能かという応答すら行うことがない」のに対して、自殺は「応答不可能であるという応答」である、とする。
この点については、離婚は自殺に近い。離婚の成立は、今後の応答の不在を確認するという応答、と言えるからだ。
しかし、より重要な違いは、失踪が個別の「親密な関係」からの離脱であるのに対して、自殺はあらゆる(未来をも含めた)「親密な関係」からの離脱である、という点にある。
その点、離婚は個別の「親密な関係」からの離脱であるから、より失踪に近いと言える。
以上二点、「曖昧な喪失」が生じないこと、「親密な関係」からの離脱が個別の関係にとどまることから、夫婦という「親密な関係」からの離脱では、離婚がより穏当な手段と言える。

失踪と自殺以外の離脱は、離婚に限らない。
職場という「親密な関係」からの離脱では、失踪であることの必然性が、さらに分かりにくい。
辞表の提出の有無だけが失踪と退職を分けるのであり、同僚の不在が失踪であるか退職であるかによって、職場に残された人間の感情が違うものになるとは思えない。

離婚も退職も、(当人の気持ち次第で)実質的に応答は失われる。応答が失われるという意味において、失踪との違いはない。離婚も退職も、「親密なる者への責任」からの解放を果たせる行為ではないのか。
「親密な関係」からの離脱を考察する際に、失踪と自殺しか考慮しなかったのは、問題があるように思う。

「高齢者所在不明問題」について、失踪者とその家族で、批判される(責任が問われる)対象が逆転するという指摘は興味深かったが、「親密なる者への責任」という観点から見れば、この問題もやはり、離婚や退職と同様に考えられる。
老親を、失踪させてしまうことと、カネだけ払って老人ホームに押し込んでしまうこととの違いは、経済的な負担を度外視した場合、どれほどのものだろうか。

子が親の元から失踪する、親子関係からの離脱だけは、多少事情が異なる。
親子関係からの離脱は、法的に(新たに特別養子縁組をする以外には)認められていないらしい。
だとすれば、親子関係からの離脱は、失踪以外にあり得ない。
しかし、これは制度上の不備であって、離婚届と同じような手続きで親子関係を解消できるのであれば、失踪は減るのではないか。
逆に、3組に1組が離婚する時代に、離婚が認められないような法改正が行われたとしたら、失踪者が続出するだろう。

手続き

失踪とは、正規の手続きを踏まずに「親密な関係」から離脱すること、と定義できるのではないだろうか。
そう定義してしまえば、失踪をする人と失踪しない人の間に、それほど大きな違いはないように思える。単に、手続きをするか否かの違いしかないのだから。
「親密な関係」からの離脱の方法は、紙一重。
離婚届が受理されれば離婚だが、受理されていなければ失踪。
辞表を提出すれば退職だが、提出しなければ失踪。
老人ホームと契約すれば入居することになるが、契約しなければ(老親が)失踪。

離婚届も、辞表も、老人ホームの契約書も、いずれも「第三者からの承認」、「赦し」として機能している。本書に登場するMさんの友人と同じ機能だ。
そして、ほとんどの人は正規の手続きを踏み、失踪することを選ばない。
子が親の元から失踪するパターンでは、法の不備により、失踪しか選択肢はないが、たとえば、夫婦という「親密な関係」からの離脱には、離婚という制度が用意されている。そして、離脱を望む人のほとんどは、失踪ではなく離婚を選ぶ。
そうである以上、やはり「失踪の社会学」で問うべきなのは、「なぜ私たちは失踪しないのか」ではなく、「なぜ彼らは失踪したのか」ということになるだろう。

「失踪の社会学」

しかし、そのような問題設定は、本書の問題意識とは相容れない。
結局、「失踪の社会学」というタイトルがミスリードであるように思う。
おそらく、このタイトルに惹かれて本書を手に取った読者の大半(言い過ぎ?)は、(本書の「はじめに」であらかじめ断りが入れられているのだとしてなお)読み進むにつれ「こんな話なの?」という感想を抱いたに違いない。
「親密な関係からの離脱-失踪から見る責任をめぐる試論-」くらいのタイトルが適当に思う。読者数は大きく減ってしまうだろうか。

本書では終章において「行為としての<失踪>の可能性」を掲げる。
しかしながら、現代においては、離婚や退職も珍しくない。「親密な関係」からの離脱は、(親子関係を除けば)すでに十分に認められていると言えるだろう。
むしろ、認められているが故に、いくつかの「親密な関係」から離脱した挙げ句、残った最後の「親密な関係」(それは多くの場合、親子関係なのであろう)にしがみつかなければならなくなっている、というのが現代の病的な人間関係、すなわち、失踪を選択せざるを得ないような「親密な関係」の正体であるような気がする。
本書の内容に沿って考えると(本書には明示されてはいないものの)、Kさん、Lさん、Mさんという3名の失踪経験者は、そんな親にしがみつかれた結果、過負荷となり、失踪に至ったと言えるだろう。

苦しさの原因となっている「親密な関係」からの離脱が推奨されることに異論はないし、離脱することによってかえって困難を抱え込むことがない制度が整備されるべきだと思う。しかしだからこそ、「<失踪>の可能性」を論じるのではなく、失踪せずに済む、すなわち、離脱はしても失踪はしないという社会を模索する論考であって欲しかった。
それこそが「失踪の社会学」ではないだろうか。

さて、最後にもう一度まとめてみたい。
私の理解によれば、本書の論旨は、以下の通りである。
1)現代社会は不自由である
2)不自由は、「親密な関係」からの離脱に対する抵抗感に由来する
3)抵抗感の正体は、「親密なる者への責任」
4)「親密なる者への責任」とは、呼びかけに応答する義務
以上が、失踪を切り口に考察されている。
先にも述べたが、異論はない。失踪についての記述には多くの異議を申し立てたが、本書全体を通しての論旨に異論はない。

ただし、ここで大きな疑問が生じる。
なぜ、私たちは呼びかけに応答しなければならないのか。さらに言えば、そもそも、人はなぜ他者に呼びかけるのか。
大きすぎる疑問を生じる、というのも良書の条件のひとつかもしれない。
「失踪の社会学」は、思索の一歩目となった。


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