師走より忙しい?

 もう少しで4月だ。多くの人は新しい年度に向けて期待に胸を膨らませているに違いない。だが、僕の頭の中はたくさんのことが混迷を極めており、混沌として整理がついていない。それらは確実に頭の容量の大部分を占領し、目の前の作業の効率を落としにくる。このnoteは、そういうごちゃごちゃした頭の中の整理のために書き綴ったものである。
思えば3月は1、2月に比べて激動の1ヶ月であった。それまで穏やかで余裕のあったた僕の心は、この1ヶ月足らずであれよあれよと重たい積荷に足の踏み場を奪われた。
 思えば1月はほとんど何もせずに暮らすことができた。アルバイトには行っていたが、その回数はたかが知れている。大雪が降れば思い立って観光地に出かけたし、料理もそこそこに作って毎食食べていた。2月からはアルバイトを掛け持ちしたが、中旬にはその生活にも慣れた。移動にかかる3時間は、書店で選んだ本を読み漁って過ごしていた。そういうふうにして、僕は1日の中に自分の時間を見つけては、心置きなく一人の世界に浸ってバランスをとっていた。
だが、2月も下旬を過ぎてから雲行きが怪しくなる。まずは世界情勢が急転したこと。安息としてのYouTubeが、緊縛した状況を伝えるメディアに早変わりした。家に帰ってリラックスするつもりが、惨状を作り出した側への怒りとかやるせなさとかに取って代わってしまっていた。
世界の話繋がりで、まんぼうが解除される/されないの期限が2/20だったことも、書いておかなければならない。結局3/26まで延長になったが、当時は家主が帰ってくる/こないの判断に使っていた。
また、4月からの新生活のために、引っ越しの支度もしなければまたならない。ただでさえ片付けにあくせくしているのに、帰宅してわずかな3時間を荷物整理に充てようとすると、果てしなく遠い作業に思えてしまう。
結局、家主は3月の上旬に帰ってきた。それ自体は嬉しいことだったし、ワクワクもあった。しかし、共同生活を通して、僕がいかに出来損ないだったかということが、ベールを1枚1枚ゆっくり剥がすように明らかになっていったのもこのあたりからである。僕は共同生活に慣れていなさすぎる。ともすると慣れるより先に神経を擦り切ってしまうかもしれない。何がそんなに苦痛なのかといえば、別に何もない。強いていうなら、他者の存在自体が僕には脅威なのだ。それは唯一無二の親友であっても、血を同じくする肉親であっても、全くの赤の他人であっても程度に差はない。それまで、「家=一人、外=人と接する」ときれいに二分された生活だったため、外では外向けのスイッチをオンにしてアルバイト勤しんでいたし、家につけばオフモードで好きに過ごしていた。しかし、世界情勢や共同生活によって「家=一人」の部分が侵食されてしまった。もはや家はリラックスの場所ではなく、それどころかさらにスイッチを強く押さなければならない領域になってしまった。僕以外の人は、どういう風に折り合いをつけているのか、とても興味がある。

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