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人生の無限的後退

久しぶりに本当に何も予定がなくて、しかも元気な土曜日だった。
「落下の解剖学」という映画を見た。
先月誕生日に、「熱のあとに」を見た時の予告編で初めて見て、記憶に残っていたから。
映画を見た感想をぐるぐる考えているんだが、日記に書き落とすにしては長文になってしまいそうだし、Filmarksは一生続かないので、noteに落とすことにする。
もしかすると、ネタバレを含むかもしれない。
と、思っていたけど、案の定めちゃめちゃ含む。だが、どうせ知り合いの5%も見ない映画だと思うので、特に気にしないで書く。
あなたの行動にポジティブな影響を与えるものだったらいいけど、そうでなかったらすいません。すいませんと言ってみたものの、あんま思ってないかもしれません。
見る予定の人は見ないほうがいいので、ブラウザバックしてください。見ない予定の人は読み物としてどうぞ。

映画の趣旨はこんな感じ。興味あればそのまま読んでみてください。

人里離れた雪山の山荘で、視覚障がいをもつ11歳の少年(ダニエル)が血を流して倒れていた父親(サミュエル)を発見し、悲鳴を聞いた母親が救助を要請するが、父親はすでに息絶えていた。当初は転落死と思われたが、その死には不審な点も多く、前日に夫婦ゲンカをしていたことなどから、妻であるベストセラー作家のサンドラに夫殺しの疑いがかけられていく。息子に対して必死に自らの無罪を主張するサンドラだったが、事件の真相が明らかになっていくなかで、仲むつまじいと思われていた家族像とは裏腹の、夫婦のあいだに隠された秘密や嘘が露わになっていく。



先月見た予告がこれ。(もうちょっと短かったかも。主題は変わらない。)

サスペンスは好きなので、そんな匂いを感じて興味を持った。

でも、見終わった後の感想は「これはサスペンス・スリラーの形式を取った、ヒューマンドラマなのではないか。」というものだった。
なので、(1)感性がずれているのか(2)邦題の付け方が間違っているのか(3)プロモーションが間違っているのか、色んな可能性を検討したが、(4)意図的に違和感を作らされたんだろうなと現状は思っている。
(1)のパターンの確認で、一通りレビューに目を通したが、同じようなニュアンスのレビューも多かったので、この解釈においてはマイノリティではないという結論。
(2)に関しては、洋題も原題もみてみたけれども、どちらも「Anatomy of a Fall」「Anatomie d'une chute」で、おそらく直訳なんだろうと思う。Anatomyという言葉の別の意味、みたいなニュアンスがあるような気もしているが、現時点でその解釈としてバチッとなるものには見つかっていない。
と、考えていくと、必然的に(3)の線が濃厚になってくる。ただ、流石にプロモーション作っている人も見ているだろう、そしてきっと同じような感想を持ったんじゃないかなと思う。ジュスティーヌはインタビューでこんな言葉を残している。

この作品はスリラー映画のような体裁をとっていますが、実はこのカップルがこれからどうやって一緒に暮らしていくのか? と問いかける作品です。

ジュスティーヌ・トリエ監督インタビュー

このあたりを包括的に踏まえると、鑑後感として問いかけを作るために、あえてプロモーションでは触れなかったし、スリラー色を強めたんだろうなという結論に至る。してやられた、という感覚。(この期待値と鑑後感のギャップは人を選ぶような気もするが)(鑑後感という単語は錬成した。)本当のところは知るよしもないが。

この映画の主題は、「答えも確証もない世界で、前進するために、お前は何を選択し、何をするのか?」という話だと認識している。(前進が普遍の善だとは思ってないが)
暗闇とまでは言わないけど、一寸先がギリギリ見えないような世の中で、自分が正解だと思う方向に意思を持って進めるか?、と言われているような気がした。

自分の歩みに確証を持たせるものは存在しないし、数歩先からみてその道が正解の道だったかはなんて、時間が経過しなければ知る由もない。でも、少なくともその時点では正解だし、決めたらその道をきっちり歩く以外やることはないんだと再確認させられる。

ダニエルの盲目はその一寸先が見えない世界のメタファーだったんだろう。実際に目の前が見えない世界で過ごしている少年が一歩進む話。よくできた映画だ。

最後の無罪判決後、ダニエルがサンドラに会うのが怖いと言ったことを鮮明に覚えている。
殺したか殺してないからわからないけどダニエル自身は、「母は殺していない」という判断をした。仲良しだと思っていた母親と父親が、本当はすごく揉めていたことを裁判の過程で知って、これまで信じていた親同士の関係性が幻想だと気付かされたはずなのに。それでも「母は殺してない」という判断を、自分の意思でした。
意思決定はしたけれども、本当に殺していないかはわからなくて、本当は自分の母は父を殺したかもしれない。状況判断と自分の意思を踏まえて判断しただけでしかないし、確証はない。この判断があっているかどうかわからないけど進むしかない。
そんな前進したい気持ちと後ろ髪引かれる気持ちがグチャッと混じって、とっさに言葉に出てしまった様子に人間らしさを感じた。

この映画の制作過程で、結局自死なのか他殺なのかそれ以外なのか、キャストにも明らかにされていなかったとのこと。いくつかインタビューでそれに触れられているものを抜粋してみた。その見えないこだわりが、この強い鑑後感を作り出しているんだろうと思う。すごいな〜〜。

“Sandra would be begging Justine on set: ‘Tell me, am I guilty or not? Am I a murderer?’ She needed to know to play the role,” says Swann Arlaud, who plays Sandra’s defense attorney in the film. “But Justine would never say. It was hard for her because, as an actress, Sandra never cheats —she’s always present, concrete. Not knowing what her character was up to made it incredibly hard for her.
(ざっくり、ジュスティーヌはサンドラに殺したか殺してないかを最後まで教えなかった、という話)

なんか英語のインタビュー

そして私は長い間、彼に台本のすべてを見せませんでした。暗記させたくなかったのです。もし暗記していたら、学校の授業でやるように暗唱してしまうと思ったので、「これから体験することは説明するけれど、この映画の結末はわかりません」と言うのも私のやり方のひとつでした。ですから、ミロは何度か母親が有罪かどうか私たちに尋ねました。このように、映画の中でダニエルに一番近い立場にミロを置きたかったのです。

ジュスティーヌ・トリエ監督インタビュー

この「先の見えない世界でお前はどうする?」という問いは、サミュエル⇄サンドラ/ダニエルの対比にも現れているんだろうと思う。
サミュエルは前進するよりも現状維持を選び、前進するための意思決定を怠った(もしくは間違った)んだろうと思う。正確に言うと、自分がうまくいかない理由を外部要因に委ねた。もちろん外部要因にコントロールされすぎているケースも多分に存在するが、その一方で外部要因に委ねると解決可能性が下がっていき、現状維持の可能性も上がる。その結果、サミュエルとサンドラは同じ場所からスタートして同じ方向を見ていたはずなのに、小さなズレが生まれてしまい、最終的にそのズレは気づいた時には取り戻せない差になってしまっていた。

最終的にサミュエルは死んでしまったわけだけど、この映画でサンドラがサミュエルを殺したのか殺してないのか、最後まで明言されてない。サンドラが最後の犬に抱きついて寝ているシーンは安心しているようにも見えるし、覚悟を決めて自分にこもっているようにも見える。
意見が分かれるところだと思うが、個人的には殺してないんだろうなと思う。
最後のヴィンセントとの掛け合いの部分で理性を感じたし(キスしなかったところ)、裁判のシーンで終始驚いている印象も感じた。映画を見ていて、サンドラは感情でやや衝動性のある人間だとは思ったけれども、人を殺す自分を良しとできる人間ではないように感じた。ので、多分殺していないんだろうなというふうに思っている。
答えがわからない映画のしこりに残る感じはとても好き。

答えを教えてくれない、という終わり方だったけれども、情報の出しどころと出し方はかなり気持ちよかった。序盤で出される情報はかなり限定されていて、基本的にサンドラの主観で語られる。(サミュエルが死ぬまで客観的情報が出てこなかった気がする。)
語っているサンドラも、ヴィンセントに殺してないことを主張する形で書かれているから、妙に信憑性もあった。私は殺してない、というまでに話し始めてからかなり時間が経っていたことも覚えてる。
中盤以降、サンドラとサミュエルの関係性は、裁判の過程を通して、一定の客観性を持たされる形で明かされていった。サミュエルが残した録音とサンドラの書いた小説という形で。主観と客観がシーンで切り替えられていて、印象がコロコロ変えられた。すごい映画だなと思う。

そんなことを思いながら映画を見ていた。
つらつらと感想文を書いているわけだけど、書きながら追加で思ったことが最後にある。パートナーシップに関する問いかけに関して。

サミュエルとサンドラのパートナーシップは成り立っているようで成り立っていなかった。成り立っていたけれども瓦解した、が正しいかもしれない。
時間が経てば経つほどエントロピーが増大していくので、どんなに仲が良くてもズレをなくすのは無理だろう。なので、エントロピーの増大をどう抑制するか、つまり現在地のズレやお互いの考えのズレをどう解決・許容していくかという話になるが、対話以外の解決策はおそらくない。
でもその対話ってかなり難しい。心が穏やかでないとまっすぐ相手と話すのは難しいんだなと映画を見て改めて感じた。

そして、仮にそのズレから相手がほじくり返せる弱みのようなものが生まれてしまった場合(それが両者にあったわけだけど)、それを処理するのは相当難しいんだろうと思う。不倫を許すかとか、子供の事故の原因となった出来事をどう捉えるとか。
難しい問題すぎてわかんねーと思うけど、いつか向き合わないといけないんだろうと思う。そんな日が来ないことを祈ってる。お互いに相手に誠実であり続けるしかないんだろう。

などなど、映画を見て思った感想でした。

人生は答えも確証もない旅路なので、意思決定をし続けないといけない。でも意思決定って大変だししんどい。だから、後回しにできるものは後回しにするし、意識しないと答えに近そうに見えることや確証を求めてしまう時がある。どちらも存在しないのに。
そうすると、人生が無限的後退のサイクルに入る。一度無限的後退に入ると、抜け出すのは難しい。大事な意思決定をしないで、歩き続けることもできるから。でも歩き続けた先に、サイクルに入る前に思い描いていた自分はいなくて、後退サイクルに慣れ・飽きた時に後悔する。(後退と後悔で韻踏んでる)
「他人がどこで何がどうとかはマジで興味ねえ」とはいえない。たまには人も気になるし、気になる人は自分が選ばなかった道の鏡だから。たまにはうーんとなるし、ぐーーともなる。びゃーーとも思う。
でも、結局自分がどうするかだけでしかないし、自分が正解だと思えば正解なんだろうから、大事なことを、小さいことでも毎日1つずつ決めて積み重ねていくしかないよなと思う。それを肯定してくれる人が周りに2人いれば、それでいい。

自己啓発みたいな締め方ですが、そんなことを諸々考える映画でした。
ちょっと長いので、飲み物は程々に飲んだほうがいい映画です。
あとやや単調なので(良い単調さだったけど)、眠いときは見ないほうがいいと思います。

前です。結構お気に入り。


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