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3-7.情報提供の義務付け

阿蘭陀風説書

幕府は、オランダに対して、貿易を許可する条件として情報の提供を義務付けました。「阿蘭陀風説書」と呼ばれるものです。これは、1641年にオランダ商館長が貿易許可に感謝の意を表明するために、江戸に参府した際にあらためて言い渡された条件の中にありました。その前から、商売を有利に進めるために、オランダは幕府に対して、さまざまな情報を必要に応じて提供していました。それが、幕府にとって良質な情報だと認識されたため、この年に完全に義務化したのです。。

これは、直接的にはその前年のポルトガルからの使節団を処刑したことの報復が予想されたことによるものです(出所:「オランダ風説書/松方冬子」P39)。つまり、国防の備えのひとつであったわけです

遠見番所(見張り台)の設置

その処刑と同時期に、幕府は九州、四国、中国地方の沿岸に「遠見番所」(見張り台)の設置を諸藩に命じてもいます(出所:「幕末の海防戦略/上白石実(以下「幕末/上白石」と記す)」P20)。沿岸での備えと同時に、より早い段階での情報が必要だったのです。最初はポルトガル船の来航が予想される場所(九州、西日本沿岸)だけでしたが、その後全国に設置を命じるようになります。

風説書の内容

この風説書は、オランダ人が知り得た世界中の情報が原則で、オランダのみの情報ではありません。通常の風説書は新任商館長の着任ごとの提出だったので、当初は毎年提出されていました。長崎にて商館長の口頭での情報を通詞が聞き取り、それを和訳したものだといわれています。通詞が訳し、長崎奉行のチェックが入ったのちに江戸へ送られていました。したがって、何を聞き取った情報として文章に残すか、その取捨選択の決定権は、出先機関である長崎奉行にあったわけです(口頭で聞き取ったドラフトの下書きが残されているものもあり、それと江戸へ送った正式版を比べると、両者には差異が見られたこともあったらしい)。

オランダ側からすれば、あくまで商売上有利になるように情報を提供するわけですから、営業トーク的な内容も多分に含まれていたと思います。したがって、情報を受け取る長崎奉行側も、次第に「真偽いずれか」を考えるようになっていきました。1853年のペリーの最初の来航を、前年に情報として伝えられた時、その情報を半信半疑で捉えた原因はそこにあります。

のちには、これとは別に「別段風説書」というものも作成されるようになります。これは一八四〇年のアヘン戦争後、長崎ではなくバタヴィアのオランダ政庁で作成された(文章として)もので、1857年まで続けられていました(詳細は後述)。

また、同じく「唐風説書」というものもあり、こちらは長崎入港の中国商人からの情報をまとめたものでした。

続く

タイトル画像出所:国立国会図書館https://www.ndl.go.jp/nichiran/data/L/002/002-001l.html

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